November 2024
Bow。さん、逝く。
2024/11/24 18:28 Filed in: 日記っぽい話
Bow。さんが旅立たれた。
親しいと言えるような個人的な付き合いがあったわけではありませんが、「クルマの達人」に登場していただくために取材したときの心地よさをよく覚えています。数年前に、癌を患ったそうだと人づてに知って、少し落ち着いた頃だとも聞いたので携帯電話を鳴らしてみたけど応答はありませんでした。喉の腫瘍だったと後で知りました。
Bow。さんのことを書いた「クルマの達人」を掲載します。2007年のちょうど今ごろの季節に書店に並んだものです。写真は橋本玲さん。誌面に掲載したものとは違う、未公開のカットです。誌面ではもう少し厳しい表情をしたものを使いました。あの頃は誌面に緊張感を持たせるためにそれがいいと思ってのことでしたが、こちら表情の方が、わたしの知っているBow。さんらしいと思います。アトリエのガレージにあった、「TR-3」の写真も添えておきます。この写真が撮られた17年前の時点ですでに40年の連れ合い。誰もが知っている、あのTR-3です。
Bow。さん、やすらかに。
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魂って、本当に存在するんでしょうか。もし存在するとしたら、それはいったい身体のどこにあるんでしょう。やっぱり頭の中、それとも胸の奥かしら。
Bow。さんの仕事場にあるガレージで、コーヒーをすすりながらの楽しい話も終わり、住宅街の細い道をてくてくと散歩のようにのんびり歩きながら、そんなことを考えていた。甲州街道に出る頃には、もう違うことが気になっていたんですけどね。だってこの大通り、今日もすごいクルマの流れ。意識は自然に、走るクルマへと向かいますから。
「実は20代の頃は、ファッション関係の仕事に精を出してたんだ。自動車の絵を描く仕事も十分あったけど、それよりももっと派手なシーンで生活していたような気がするな。だから当時は自動車の絵が仕事の中心っていう感覚は、なかったの。ファッション関係の仕事が面白くて、そっちに夢中だったんだね。
でもね、自動車の絵は頼まれなくてもずっと描いてた。3歳のころからだから、自動車の絵は。
おばあちゃんがね、甲州街道まで散歩によく連れてってくれたわけ。進駐軍の兵隊が乗るアメリカ製の最新型がカッコよくてね。あたりが暗くなって、“和弘、もういいでしょう?”って急かされても、あと少しあと少しって眺めては、家に帰って新聞の折り込み広告の裏に描いてたんだよ。好きだったんだね、自動車が」
Bow。さんの描くクルマの絵は、エッチだと思う。誰が乗ってきて、誰を待ってるのだろう。5分後の絵の景色には、もうそのクルマはいないかもしれない。誰とどこへ向かってしまったのかしら。切り取られた情景の中に時間の流れが見えてきて、妄想が膨らんでしまう。言葉知らずで失礼極まりないが、とてもエッチだと思うのだ。
「そう、僕の頭の中は、とてもエロティックだと思う。注文主からお題を与えられて、それは大抵“こういう色のこういうクルマで”というものなんだけど、少なくとも2日間くらいは、イメージを膨らませてるだけだよね。若い頃に絵を習ったことがあるんだけど、その頃からそうだった。ただ自動車をデッサンするような絵じゃなくて、観てくれる人たちが物語を感じてくれるような絵にしたいんだ。
こういうことなんですよなんていう答えがあるわけじゃなくて、十人十色、それぞれの記憶の中で共鳴する空気を感じてくれればいいと思う。僕の知らないところで、僕には想像もつかない物語が添えられてるのかななんて考えたら、本当にうれしい」
魂って、身体の中にあるんじゃなくて、思いを込めた何かがその人の手を離れた瞬間に、そこに宿るものなのかもしれない。言葉が口を離れて言霊になるように、絵は思いを描きあげた瞬間に魂を宿すのだとしたら、これは最高にエロティックだと思う。どこで誰の感性を濡らすかも分からない。わたしは、Bow。さんの絵、とてもエッチだと思う。
自動車が描きたい
その気持ちは譲れなかった
今も子どもの頃と変わらず、ドキッとした瞬間のクルマのいる風景を頭の中で紡ぎながら、作品を描いているのだというBow。さん。30代に大きな気持ちの転機を迎えたと教えてくれた。
「自分が何をやりたいのかっていうことに、相当悩んだ時期があってね。もちろん生活もあるから、好き勝手やっていいわけじゃないし、でも何か本当に集中したいことに正直に向かい合えていないような自分が嫌になっていたんだと思う。悩んだよ。
でもね、突然ひらめいたの。僕、自動車の絵が描きたいんだって。それがお金になるかならないかは、みなさんが決めてくださることで、仕事にならないから描かないというのは違うだろうって。自動車の絵を描くということを生き方の中心に据えて、ごはんを食べるためにやることなんて、別にどんな仕事でもいい。それでいいやって思えてからは、本当に気持ちが楽になったんだよ。なんだか毎日幸せだなぁって、感じられるんだ」
それでも幸いに、大した浮き沈みもなく今日まで来られたのは、運もよかったのかもねと笑うBow。さん。今や、クルマ好きが集まる場所ならどこででも見かけるあの絵に、そういう逸話があったことに驚いていると、こんなことを話してくれた。
「誰にでもあると思う、僕にとっての自動車の絵のような大切な存在って。それが見つからないって嘆く人が多いみたいだけど、見つけるものなんだと思う。見つける気持ちをあきらめないで、ずっとずっと自分を信じて探し続けなきゃ。
コレだってひらめくのが、20歳だって40歳だって70歳だっていいじゃない。見つけたその目標を頭の上に掲げて、今日は昨日よりも1ミリ近づいたな、あっ今日は昨日より1メートル下がっちゃったから明日は2メートル進もうって。そういうのが楽しいんだよ。それを絶対に仕事にしようなんて構えて疲れちゃうんじゃなくて、毎日地味に働いてるけど、自分にはアレがあるぜ、って思えることが最高に愉快なんだって」
ちょっと格好いいこと言い過ぎてるみたいで恥ずかしいね、と笑いながら、一目惚れして40年連れ添ってきたトライアンフTR3の話をはじめたBow。さん。マロニエの落ち葉道に静かに止まるクルマの絵に感じたあの空気、こういう男のみつごの魂が込められた作品なのだと知った。
「どうしても描き続けたい
自動車の絵を描く動機はそれだけだよ。。。」
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「NS号」日本自動車殿堂に登録されました。
2024/11/14 02:59 Filed in: 日記っぽい話
島津楢蔵が1909年(明治42年)9月に製作した「NS号」が、日本初のオートバイを理由として日本自動車殿堂の歴史遺産車に登録されました。その伝達式が、昨日、千代田区神田の学士会館で行われ、島津楢蔵の親族ということで同事務局から名代を仰せつかり参列してきました。
壇上で読んだ挨拶文です。
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最近、NHKの「坂の上の雲」の再放送を観ています。主人公の軍人 秋山兄弟、俳人 正岡子規、作家の夏目漱石、森鴎外までも、変革の礎となった偉人たちが同時期に同窓とも言える近さで感化しあう偶然が、互いの士気を鼓舞し、大きな成果につながる活動の原動力となっている様に改めて驚いています。
歴史を振り返ると、音楽、文学、政治などのあらゆる分野において同様の事例を見つけることができるのですが、本邦モータリゼーションの起源においてもまた同様であります。
今回、選考委員の皆さまのご解釈により、日本自動車殿堂へ登録されることになった明治42年作の「NS号」にも、それを製作した島津楢蔵の決意を促す人たちの姿があったことに、製作者の末裔として謝意を表さずにはいられません。
持ち時間の都合でここで詳しくは申し上げませんが、東洋工業(現・マツダ)を創設された松田重次郎氏、豊田式織機を興し後にトヨタ自動車へとつながる流れの礎を築かれた豊田佐吉氏という錚錚たる偉人が、人生の先人として若き楢蔵と関わりのあるところに居られたことは、楢蔵のガソリンエンジン、そして「NS号」の創作意欲に強い追い風を吹かせたことを容易に想像させます。
そしてその後、楢蔵とその実弟である銀三郎が揃って航空機用エンジンの先駆者として各地の展覧飛行会に赴いていた頃、浮かび上がる機影を見上げる少年時代の本田宗一郎氏の姿がありました。
本邦初のオートバイとして「NS号」がこのような栄誉に与ることを受け、かつて本邦には間違いなく新しい世代の活躍に追い風を吹かせる先人の存在があったこと、そのような風を受けた者たちが一心不乱に未到の成果を求めて励むことを良しとし、後世へと継承されてゆく風潮があったことに思いを馳せ、わずかでもその気配復興の助力となる活動ができれば、末裔として先祖に成り代わり日本自動車殿堂入りの恩義に報いるのではないかと思うところです。
本日は、「NS号」の日本自動車殿堂入りを賜り、誠にありがとうございました。
令和6年 11月13日 モータージャーナリスト 山口宗久
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日清、日露戦争を経た明治期の世情、もちろん想像するしかない120年ほども昔のことですが、十代後半から二十歳頃の前のめりな青年を抑え込んでしまうことなく、背中を押すような態度で接した大人たちが生み出した楢蔵による「NS号」誕生でもあったと確信しています。
楢蔵にひとかどの才能があったことは疑う余地のないことですが、同時に、思い込みと理想だけで突っ走る若気の青さが人一倍強かったことと、その様子を楽しむか如く鼓舞する……ある意味無責任な楽しい大人たちの存在があったこと。そして、当時も間違いなくあったはずの、この世を支配するかのような巨大な組織の都合に左右されない個の強さを、推される方にも推す方にも感じます。わたしもわずかでもそのようであるように、見習いたいものです。
式典の写真は「二輪文化を伝える会」の松島 裕さんが撮ってくださいました。
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