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大好きなクルマと大好きな音楽と。



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'09 HONDA S2000
Tokyo, Japan
text, photo / Munehisa Yamaguchi
   
選ばれし、その理由

物書きの仕事をしていると、深夜のとんでもない時間に電話が鳴ることがある。たいてい編集者か同業者か、ともかくそんな時間に私が起きていることを知っている人間がいて、そういう時間に電話をしてくる。

その日も夜中の3時くらいに電話が鳴った。電話の声の主は都内で整備工場を経営するメカニックで、以前「クルマの達人」という雑誌の連載記事で紹介した男だった。その彼のところに、高校生くらいの少年が訪ねてきたのだという。記事を読んで感動して、どうしても物語に出てくる本人に会いたくなって来てくれたのだそうだ。免許が取れる歳になったらこういうクルマに乗って、あんな風にチューニングして、こんなところを走りたい。ひとしきりそんな話を活字で読んだ憧れの人と楽しんで、満面の笑みを残して帰って行った。そんな出来事があった翌日、その少年の母親から丁寧な感謝の電話が彼宛にかかってきた。少年は、がんを患っていた。これから闘病の生活が始まるのを前に、せっかく上京したんだから会いに行きたいとせがまれて、大いに心配だったけど許してよかったと母親は感謝した。病室に帰ってきた少年は、満面の笑みで、そのときのことを話して止まなかったそうだ。両親は、すでに宣告を受けていた。


知っていれば、そろそろ作業に戻るからなんて話を切り上げたりしなかったのに、と電話の向こうで男は泣いた。仕方がないとなぐさめても、彼は泣き止まなかった。


少年は彼の生き様にキラキラと輝くものを見つけて、それに憧れた。誌面で紹介する写真を撮るときも、ぼさぼさの髪をして油に汚れたつなぎを着ていることに頓着しないような男だが、そんなことは少年にはどうでもよかった。機械はこうでなくてはならない、クルマはこうでなくてはならないと、1つ1つの部品に話しかけるように仕上げていく彼のメカニズムに対する一途さに、少年は自分の夢を重ねたのだ。少年は彼を選んだ。彼には選ばれるに値する何かがあった。


ボンネットを開けなければ目に触れないようなところに、こんなに強い主張を秘めているクルマがある。選ばれることを意識してエンジンルームを飾る安物の装飾ではなく、作り手の抑えきれない気持ちが刻んだ魂の在処(ありか)を示す証拠。楽しいクルマはこうでなくてはならないという変わらぬ一途さが、法人という人格の生き様を築きあげ、生み出す製品に仏の目を刻む。人々はその生き様に憧れ、だからそれを選ぶ。選ばれるものには、選ばれる理由がある。


少年は二度と姿を見せなかったが、その出会いは選ばれた者にも選んだ者にも、素敵な思い出として残った。いつ訪れるかわからないその一瞬は、不問の時を経て志を貫き通す以外に輝くことはない。こんな時代だからこそ、そのことを痛感するのだ。


2010 copyright / Munehisa Yamaguchi