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島津モーター研究所の様子
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丹金の細工工場は造幣局の下請けをしていたこともあって10数人の細工職人を抱え、第1図のように(明治)20年代の初めには手工業を脱し、5馬力の英国クロスレーの石油機関を備えていた。それによって機械類や、2kWの直流自家発電装置を駆動し、点燈や細工用小型モーターの運転あるいは電気メッキなどを行っていたのである。その頃のほとんどの工場が動力源を有せず、まれに「ぶり回し」あるいは「車回し」と呼ばれた見習工に、はずみ車を回させ、それを工作機械などの動力にしていた頃の話である。


「科学史研究」第II期 第21巻(NO.142) “国産ガソリン機関開発の先駆者・島津楢蔵”
出水力著 岩波書店・昭和42年6月2日刊より





左レイアウト図/「科学史研究」岩波書店 より
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1908年、日本初のガソリンエンジンは、「丹金」という貴金属を加工する小さな町工場の片隅で生まれた。自動車史では、内山駒之助氏が1907年に完成させたタクリー号が国産初の自動車であり、それに搭載された2気筒のエンジンこそ、国産初のガソリンエンジンであるという説もあるが、国立科学博物館の資料によると、同車はエンジンやトランスミッションはアメリカから輸入し、主としてボディを製作したもの、ともある。どちらのエンジンも現存せず、事の真相を確かめる術もないのだが、極めて近い時期に係わりのない2人が同様の取り組みを開始していたという事実のほうが、事始めの真相よりもずっと興味深い。

ちなみに楢蔵が初めて製作したエンジンは、排気量約400ccの単気筒で、前出「科学史研究」によると、“クランクケースは軽くするためにアルミ、気化器は表面型に代わって普及しつつあった噴霧型を試作。点火プラグも絶縁体のみ京都清水の陶器屋で作らせ、残りの部分は自作した。イグニッションコイルも銅線の上に絹線を巻いて作り、点火源には乾電池を使用した”とある。つまり、鋳造、機械加工などを含め、点火プラグの絶縁体以外、すべて自作だったというわけだ。

もっとも点火源として3個使用された4.5Vの乾電池まで自作だったかは不明だが、後に自己放電性の低いマンガン乾電池を製作するために必要な高純度過酸化マンガンの製造法(「レクランシエー」電池の滅極物製造法)や、アルカリ性二次電池の活質物質製造法など、電池に関する特許を10件余り取得している兄弟のことだから、乾電池も自家製だった可能性は十分にありそうだ。

いずれにしても、楢蔵がすべて手製のエンジン作りを行えたのも、兄弟が生涯もの作りの魅力に取り憑かれることになったのも、当時としては最先端の設備を誇る「丹金」の工場が身近な存在であったことが大きな理由であることは確かなようだ。

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