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 宮浦松五郎という男

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楢蔵と銀三郎の母方の祖父は、宮浦松五郎といった。もし継承される血の系統が本当に存在するとしたら、兄弟のエンジニアとしてのDNAは、母を通じて宮浦氏から流れ込んだということになる。

祖父宮浦松五郎は江戸深川在の幕府出入の鋳物師で、江川太郎左衛門に招かれ、韮山で大砲の鋳造に協力した。そして元治元(1864)年に、松五郎は広島藩に迎えられ、大砲の鋳造と西洋砲術の指導を行い、幕末維新期の近代技術者であった。
「科学史研究」第II期 第21巻(NO.142) “国産ガソリン機関開発の先駆者・島津楢蔵” 出水力著 岩波書店・昭和42年6月2日刊より



母の父に当たられる宮浦松五郎は芸州広島藩の浅野家に仕え、技術者として主君の蘢を受け、兵器研究のために、オランダに派遣留学を命ぜられ、慶応二年に帰国し、大砲の鋳造をはじめ測量技術、電気メッキ、写真技術を導入した。
100万人の工業技術 1 技術開発への道 湯川勇吉著 ダイヤモンド社・昭和46年11月18日刊より
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写真は、慶應年間に撮影されたものだ。恐らく慶応2年、松五郎がオランダから帰国したときに撮影されたものと思われる。

絨毯の上に置かれた洋椅子に座る松五郎は、白いシャツに蝶ネクタイ。サスペンダーで吊したズボンを履き、コートのようなものを纏っている。散切り頭を整髪剤で撫でつけたような髪型は、まだ町中をちょんまげが闊歩していた時代にあっては、大いに衆目を集めたことだろう。そして何よりも、右手に分度器のような器具を持っているのが興味深い。※
当時測量に使われていた象限儀にしてはかなり小振りだが、形は象限儀うり二つである。どなたか、この器具の本当の名前と使い道を知っている方がいたら教えていただきたい。

ともあれ前述の資料にあるように、宮浦松五郎は幕末に活躍した西洋技術のエンジニアであった。元治という年号はわずか2年間(1864-1865)、慶應も4年(1865-1868)の短期間だったことを考えると、松五郎のオランダ留学は、広島藩に迎えられてすぐに旅立っていたとしても、実質2年間ということになる。

松五郎のエンジニアとしての偉業は、松五郎の実娘で、楢蔵と銀三郎の実母にあたる“かね”が、両兄弟によく話して聞かせていたらしい。松五郎の没年は調べている最中だが、祖父と孫の間で直接オランダ留学の様子や機械の楽しさなどについて話したという記録は残っていない。

※右手の器具は「六分儀」というもので、天体の高度を測定することで、自身の位置を知るための観測・測量器具ということ。角度を測るための目盛りや定規、望遠鏡などが備わっているそうです。この六分儀の他、四分儀、八分儀、象限儀などの種類があり、すべて同様の目的を果たすための器具だそうです。読者の方から教えていただきました。ありがとうございました。

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