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 貴金属商「丹金」山口金正堂

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楢蔵は明治21(1888)年4月10日に、大阪市西区江戸堀で市内でも指折の貴金属商「丹金」の経営者島津常次郎の長男に生まれた。楢蔵の下には半生の事業をともにした実弟の銀三郎と妹がいる。
「科学史研究」第II期 第21巻(NO.142) “国産ガソリン機関開発の先駆者・島津楢蔵” 出水力著 岩波書店・昭和42年6月2日刊より


兄楢蔵は明治二十一年(一八八八年)に大阪市東区平野町に島津常次郎の長男として生まれた。父は「丹金」と号する老舗で貴金属細工、工芸品の製作、販売を業とし、当時としては珍しいほどに進歩的経営に努められた。
100万人の工業技術 1 技術開発への道 湯川勇吉著 ダイヤモンド社・昭和46年11月18日刊より
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ガソリンエンジン、オートバイ、飛行機のエンジンを始めとする数多くの技術研究を行ってきた島津モーター研究所だが、恐らくは膨大な金額に達したであろうその研究費は、一体どのように捻出されたのだろう。彼らについて書かれた資料の多くには“兄弟の実家が「丹金」という貴金属を扱う豪商であり、そのお陰で研究に没頭することができた”と記されている。

親族への聞き取りや、祖父・銀三郎と話した私の子供の頃の記憶と照らし合わせても、大筋でその通りであったようだ。すなわち膨大な研究費の支払いは、丹金の稼ぎが頼みの綱だったということだ。特に最初のガソリンエンジンやオートバイなどを製作している頃は、それ自体が事業化されていたわけでなく、また他に資金を稼ぎ出す事業なども持ち合わせていなかったのだから、丹金の商売あっての島津モーター研究所だったというわけだ。

ただし、多くの資料に書かれている記述には訂正しなければならない箇所がある。兄弟の実父である島津常次郎は、丹金の経営者ではなく、何名かいた番頭の中の1人であった。丹金の屋号は山口金助という男のもので、商売はたいそう繁盛していたが、子息に恵まれなかったようである。そこで、恐らく一番番頭であった島津常次郎が二番目の男児を授かったときに、将来の養子縁組の話をすでに持ちかけていたのではないだろうか。銀三郎という命名も、将来、山口金助の養子に入ることが約束されていたのであれば、なるほど意味ありげな名前に思える。また島津モーター研究所への豊富な資金提供も、丹金から直接、あるいは島津常次郎への給金を通じてなのかは不明だが、兄弟が共にまだ島津姓であった頃から極めて協力的であったことにも納得がいくのだ。

写真は、大阪は江戸堀にあった「丹金」の玄関。かさを被った丹の屋標がある水引のれんと、貴金属商を表す“金精”のちょうちん。長のれんには“金銀細工小間物商 丹金 山口金匠堂”と書かれているのが見える。いつ頃撮影されたものかはっきりしないが、素足に下駄履きの浴衣姿に、カンカン帽と洋傘という妙な取り合わせ。短くはっきりした濃い影を見るに、恐らく真夏の午後2時頃か。蝉時雨も止むほど暑い、在りし日の大阪の夏のひとこまである。

copyright / Munehisa Yamaguchi