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  豊田佐吉との出会い

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明治41年3月工業学校を終えた楢蔵は、名古屋市島崎町にあった豊田式織機株式会社(現在の豊和工業)に入社した。この頃は織機技術史の上では木製から鉄製への転換期にあった。楢蔵は試験工場に配属され、技師長の豊田佐吉が設計した織機を石油機関で試運転するのが主な仕事とされた。楢蔵は豊田佐吉の印象を、
「おそろしく、ものをいわん人だった。図面ばかりひいてましたね。なりふりかまわんというか、和服の着流しだった。毎朝みんなより早く工場に来て、夜はおそく私たちが帰るとき、いつもまだ残ってました」
と語っている。
「科学史研究」第II期 第21巻(NO.142) “国産ガソリン機関開発の先駆者・島津楢蔵” 出水力著 岩波書店・昭和42年6月2日刊より


楢蔵は工業高校を卒業すると、名古屋にあった豊田織機に入社した。そこでは検査工場で働くことになった。当時、常務取締役技師長であった豊田佐吉の勤勉ぶり、身を処するに厳、不言実行で献身的な技術魂100%の人格には深く感銘を受けた。在職はわずか五ヶ月の短期ではあったが、楢蔵の脳裏からは技師長豊田佐吉の人格はついに離れることはなかった。彼は年来のガソリンエンジン製作の一念に燃え、技師長のすすめもあって、辞して内燃機関の研究試作に踏み切った。時に二十一才。明治四一年八月、彼は帰阪して父の「丹金」の工場の一隅に島津モーター研究所の看板を上げ、年来の理想に身を投じた。
100万人の工業技術 1 技術開発への道 湯川勇吉著 ダイヤモンド社・昭和46年11月18日刊より
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豊田佐吉といえば、言うまでもなく革新的な織機を開発し、トヨタ自動車工業設立の礎となる事業を納めた人物である。楢蔵は、わずか5カ月の短期間ではあるが、その豊田佐吉の下で働いていたことがある。

奈良県立工業高校の染織科を卒業した楢蔵は、大阪の実家には戻らず、名古屋の豊田式織機株式会社に入社した。そこでの職務は上記資料にあるとおりだが、実際の仕事ぶりについては、心ここにあらずという状態だったかもしれない。

楢蔵は、名古屋に棚橋鎌太郎というオートバイが大好きな眼科の開業医がいて、自身もアメリカ製のエール・カリフォルニアというオートバイを所有しているという話を会社の上司から聞かされた。いてもたってもいられなくなった楢蔵は、入社して間もなくの初夏の頃には棚橋氏を訪ね、憧れのオートバイに試乗までさせてもらい、一気にオートバイへの夢を炸裂させることになる。

楢蔵は、上司であった豊田佐吉に内燃機とオートバイに対する夢が捨てきれないという思いを、素直に打ち明け、相談していたようだ。エンジニアとしてまっすぐな豊田氏であれば、きっと思いの切実さを理解して、適切なアドバイスを聞かせてもらえると感じたのかもしれない。果たして豊田氏は、思いを貫くことの尊さを説き、その道に進むべきだと楢蔵の背中を押してくれた。

歴史を調べれば、明治41年の豊田式織機株式会社は創業わずか1年目で、母体である豊田商会に目を付け出資した経営陣は、利益に直接結びつかない豊田氏の頑なな職人気質に嫌気がさし、明治43年4月には彼を辞職に追い込んでしまったとある。けれども、エンジニアリングの世界に大きな夢を抱く楢蔵にとって、そのような生き様を貫く豊田氏が感銘を受ける存在であったという事実は、逆に道理のいく話である。

ちなみに豊田氏が織機の魅力に心を奪われるきかっけになったのは、明治24年に東京上野で開催された第3回内国勧業博覧会を見に行ったことだとされている。一方、楢蔵は、明治36年に大阪で開催された第5回の同展覧会に父親の経営する「丹金」が30点余りの細工品を出品した関係で、しばしば見学に出かけ、そこで伏田清三郎氏の石油機関を知り、大きな興味を抱いている。

41歳の豊田氏と、20歳の楢蔵。“おそろしくものを言わん人だった”という豊田氏ではあるが、内国勧業展覧会のことに話題が及んだときくらい、2人の間で談笑があったと信じたいものだ。そしてもしも、棚橋氏の存在を楢蔵に教えたのが豊田氏であったりしたら、これはとても愉快な話じゃないかと勝手に想像するのだ。

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