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大好きなクルマと大好きな音楽と。

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島津兄弟の活躍を、年表にまとめてみた。
この年表は、兄弟の誕生以前から始まり、
「島津ブラザース」としての活躍以降、
両名が他界するまでを網羅している。

兄弟の誕生以前を含め、島津ブラザースとしての活躍の前後に関する記述が若干多くなったが、兄弟が多くの活躍を成し遂げることができた背景や、また兄弟揃って叙勲を受けるに至った島津ブラザース以降の活動についても、兄弟の素性を知る上で必要と判断して表記した。

母方が明治以前よりの技術職の家系で、もの作りに深い理解があったことと、父・常次郎が、山口金助の興した「丹金」を引き継ぎ得た莫大な財力で十分な支援をできたことが、兄弟の活躍を可能にした背景であるが、もちろん2人の機械に対する興味の深さと、その情熱が生涯途絶えなかったことを超える理由はない。アメリカ製の芝刈り機を買ったからと庭へ連れ出され、早く早くと芝刈りを待つ小学低学年の私に、そのエンジンの説明を延々30分もするような祖父であったことを思い出すのだ。
この年表を元に取材をし、得られたデータを新たに書き足しつつ、そんな兄弟が刻んだ“明治の男の物語”を書き進めていこう。
1828
西郷隆盛 誕生
1831(天保2)
山口金助・丹波の国氷上郡に生まれる
山口金助=「丹金」の創業者、銀三郎の養父
山口金助は、後に貴金属商「丹金」を興し、その成功で得られた財が島津兄弟の研究を支えることとなる。
1834
ゴッドリープ・ダイムラー誕生
1833(天保4)
宮浦松五郎・江戸深川に生まれる
宮浦松五郎=楢蔵、銀三郎の母方の祖父
宮浦松五郎は、江戸・深川で鋳物職人として腕を振るい、江戸幕府の要請で韮山の反射炉の建設に携わる。その功を目に止めた広島・浅野家に召し抱えられオランダ留学を果たし、鉄砲、電気メッキなどの製造技術を持ち帰る。
1844
カール・ベンツ 誕生
1852(嘉永5. 1. 5
今井常次郎・大阪堂島西方に生まれる
今井常次郎=楢蔵、銀三郎の父。
大阪・堂島ビルの西方にあった米屋の今井家に生まれた常次郎は、後に島津熊五郎の養子になり島津姓に改姓。16歳で丹金の店員となり、後に「かね」との間に楢蔵、銀三郎をもうける。
   
1853-1857(嘉永6-安政4)
宮浦松五郎・韮山反射炉の建設に携わる
宮浦松五郎は、江戸幕府の要請で韮山反射炉の建設と、反射炉完成後の製鉄、鋳造に携わる。完成した鉄製砲は、江戸・お台場砲台等に配置された。
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韮山反射炉 
1863 ヘンリー・フォード 誕生
1864?-1866(元治1-慶應2)
宮浦松五郎・浅野家の命により
オランダへ派遣留学
韮山反射炉での手腕を広島の浅野藩に認めらての留学は約2年間に及び、鉄砲、電気メッキの製造工程などの技術を覚え帰国。帰国後は 妻「きく」(兄弟の母方の祖母)と、4人の子供(この中に兄弟の母「かね」もいる)を江戸に残しての単身赴任だったが、松五郎の広島行が兄弟誕生につながってゆく。
      
1871M 4. 7
宮浦松五郎・広島誓願寺にて切腹
享年38
江戸幕府は、松五郎がオランダから持ち帰った技術で、浅野藩の武力が増してゆくのを快く思わなかった。そのような背景の下、広島の町中で幕府の役人のそでに松五郎の手が触れた触れないで、役人が刀を抜く騒ぎになった。松五郎は銃で役人を倒し、その責を負って誓願時にて切腹。妻「きく」と4人の子供は江戸から船で急遽広島へ入り、成人男子として対面が許されなかった息子・菊太郎以外の家族は、松五郎絶命の光景を目の当たりにした。後に兄弟の母となる「かね」も7歳で現場に立ち会った。
  1875
フェルディナンド・ポルシェ 誕生 
18** M *
山口金助・丹波の国氷上郡より
大阪へ上る
山口金助は立身出世を夢みて、幼少からの友だちと2人連れだって大阪へ向かった。そのときのもう1人は後に関西経済界の重鎮に上り詰めた松本重太郎で、金助とは大阪でもよき相談仲間であったようだ。それが証拠に松本は最初に構えた店舗の屋号を「丹重」と名付けている。
     
18** M *
山口金助「丹金」を興す

丹金=貴金属商・大阪市西区江戸堀
松本重太郎が「丹重」を興した同時期に、山口金助は貴金属商「丹金」を興す。創業は大阪造幣局が建設される明治3年以前で、造幣局開局と同時にその下請けも開始した。
1877
西郷隆盛 逝去
1868(慶應3orM1)
島津常次郎・「丹金」の店員になる
常次郎=16
今井から島津に改姓した常次郎は、創業間もない丹金に入る。常次郎は、山口金助と共に全国行脚し、貴金属加工の名人集めを行った。最盛期には50人にも及んだという職人たちの腕前が丹金繁盛の原動力になった。
1886 カール・ベンツ「パテント・
モトールヴァーゲン」製作
1888 M 21. 4.10
島津楢蔵・大阪で生まれる
島津常次郎=(宮浦)かね
父・松五郎の最期を見届けた「かね」は母に連れられ家族と共に船で江戸へ向かうが、途中でしけに遭い大阪に避難し、そのまま大阪に住むことになる。かねは大阪で島津常次郎と縁を持ち、楢蔵が誕生することになる。
1889 M 22
大日本帝国憲法発布
1892 M 25
山口金助・逝去 享年61
山口金助に代わり、島津常次郎が丹金の経営者に
生前、分かっているだけでも56人のめかけがいたという山口金助だが、ただ1人の子供を残すこともなく逝去。養女の頼子が存在するが、記録にやや腑に落ちないところもあり、唯一の実子の可能性もあると考える。頼子は後に銀三郎の妻となる。「丹金」の経営者には島津常次郎が就いた。
1894-1895 M 27-28
日清戦争
1894 M 27. 3 4
島津銀三郎・大阪で生まれる
島津常次郎=(宮浦)かね
島津家の次男として銀三郎が誕生する。生年が明治天皇の銀婚式の年にあたることから銀三郎と命名された。
1903.12.17
ライト兄弟、初飛行に成功

1904-1905
M 37-38
日露戦争
1900 M 33
島津常次郎・楢蔵・銀三郎に
自転車を買い与える
兄弟は、ライト兄弟が経営するザ・ライトサイクル製のデイトン号を買い与えられる。人類初飛行に成功する3年前のライト兄弟は、まだ世間に知られる存在ではなかった。楢蔵が、同年大阪桜島で開催された自転車レースに出場したり、東京上野不忍池で行われた自転車レースを見物するために上京し、余興として走行したモーターサイクルに感動したという記述もある。
     
1908 M 41. 3
島津楢蔵・奈良県立工業学校
(現・御所工業高校)卒業
商人にさせたいという父・常次郎の意向もあり、商業高校へやられた楢蔵だが1年で退学。本人が希望する工業系の学校へということで、当時の花形産業が紡織業であったことから紡織科のある奈良県立工業学校に入学。全寮制の学生時代を過ごし、卒業。
     
1908 M 41. 4

島津楢蔵 豊田織機に入社
(名古屋市島崎町)
楢蔵の社会人としての第一歩は、名古屋の豊田織機でスタートする。楢蔵は試験工場に配属され、豊田佐吉の下で働くことになり、その勤勉ぶりに感銘を受けたと書き残している。ところが豊田織機を半年で退社し、帰阪することになる。そのきっかけは、棚橋鎌太郎との出会いにあった。
     
1908 M 41. 7
島津楢蔵・棚橋医院の
棚橋鎌太郎を訪ねる(名古屋市高丘町)
楢蔵にとって、運命の出会いが訪れた。楢蔵は豊田織機在職中の名古屋で、モーターサイクル好きな医師の噂を耳にして棚橋鎌太郎を訪ねた。棚橋の親切により、楢蔵はエンジンへの思いを再燃させ、生まれて初めて乗ったモーターサイクルに心を貫かれることになった。
   
1908 M 41.10
島津楢蔵・豊田織機を退社
楢蔵の上司であった豊田佐吉は、自製のエンジンを作りたいという楢蔵の決意を受け止め、その研究に打ち込むべきだと勧めてもくれた。また棚橋鎌太郎も、父親には俺が話をしてやると楢蔵の決意を後押ししてくれた。先人の理解と励ましに勇気づけられつつ、楢蔵は帰阪する。
     
1908 M 41
島津モーター研究所、設立
楢蔵、「丹金」の工場の一角に専用のスペースを設け、エンジンの研究を開始する。まず最初に手がけたことは、アメリカやヨーロッパ各国に英文で手紙を書き、モーターサイクルのカタログを片っ端から集めることだった。
     
1908-09 M 41.12-42. 2
日本初のモーターバイク製作
エンジン=2サイクル / 396cc
日本初の2ストロークガソリンエンジンは、完成と同時に自転車に架装され走行した。日本初の「モーターバイク」として記述の残るこの乗り物は、しかし約半年後に完成する日本初の「オートバイ」とは区別して記録されている。これはエンジンの未完成度もさることながら、“普通の自転車で作った”と記述のある稚拙な車体が米・ピアス製のフレームをほぼそのまま使ったものだということで日本初のオートバイではないと区別されているようだ。ただ興味深いのは、国産初のオートバイとして記録されるNS号以前に、純国産のガソリンエンジンを搭載して走った2輪車が存在するということだ。残念ながら、集めた資料の中には写真がない。

     
1909. 7
設計者ブレリオが11型(アンザニ型25HP)でカレー/ドーバー海峡38km32分で横断。
1909 M 42. 9
日本初の4サイクルガソリンエンジン製作
4サイクル・単気筒
排気量:400cc  圧縮比:3.5 : 1
バルブ駆動方式:吸気側=負圧自動式、
排気側=機械駆動式
処女作の2ストロークエンジンは、クランク室圧縮に対する理解が足らずに、たびたび不調に陥った。そのため2作目は4ストロークエンジンとして製作に掛かり、9月に完成させた。
1910 (M 43.10.30-31)
奈良原三、同年3月に起工した奈良原式1号機(アンザニ25HP)を完成。戸山ヶ原練兵場でテストするも、飛行に至らず。

1910M 43
森田新造、フランスよりベルギー製グレゴア・ジップ45HP4気筒エンジンと、機体製作の文献を購入して春に帰国。国内で機体を製作。
1909 M 42. 9
日本初のオートバイ “NS製作
エンジン=4サイクル / 400cc
伝導方式:Vベルトリム圧制、足動式
タイヤ:モズレー 26 × 2-1/2 
日本初のオートバイは、自転車用をベースに鉄板を丸め蝋付けした自製パイプで補強するなどして製作したフレームに、4ストロークエンジンが搭載されたものだった。駆動には革を合わせて作られた特注のVベルトが用いられた。当時進歩的だったアメリカ製オートバイでさえ平ベルトを使用していた時代にあって、そのこだわりが感心された。
1910 (M 43.11
徳川好敏大尉、日野熊蔵大尉、それぞれアンリ・ファルマン複葉機(仏)、グラーデ単葉機(独)を持ち11月末に欧州より帰国。

1910 (M 43.12.19
徳川好敏大尉、日野熊蔵大尉、所沢にて飛行に成功。
1910 M 43
航空機用エンジン調整業務開始
ヨーロッパから航空機エンジンを購入して帰国した森田新造から、大阪・鈴木モータースを通じてエンジンの調整依頼を受けたことをきっかけに、航空機用エンジンへの係わりが始まる。
1911 M 44. 2.16
伊賀氏広、滑走試作機の滑走テストを板橋旧競馬場で行うも、失敗。田中館、奈良原、都築、磯部ら航空関係者立ち会い。
1910 M 43
サイクルカー製作
4サイクルSV6馬力エンジン
駆動方式:ベルト式
ギアボックス:前進3
生産台数:23
大阪の伏田鉄工所の依頼で製作した初期の自動車。エンジン、ボディともに自製であり、国産初とされる1907年のタクリー号が輸入エンジンにボディを架装した車両であったことを考えると、純国産コンポーネンツによる日本初の4輪自動車の可能性もある。
1911 M 44. 3
徳川大尉仏製ブレオ7気筒50HP
1時間20分飛行新記録。

1911 M 44. 4.24
森田新造、自己の設計、製作によるブレリオ改造型機(グレゴア・ジップ45HP)を使い城東練兵場にて飛行。高度2~3m、距離約100m。
1911 M 44
日本初の航空機用エンジン製作
(アンザニー型3気筒35HP
アンザニー25HP(伊)を模して改良を加えたアンザニー型35HP。伊賀氏広男爵の依頼により製作。このエンジンを搭載した飛行機は、国産エンジンを搭載した初の機体として同年12月、伊賀氏の操縦により田中館、徳川大尉など、当時の航空界の重鎮らが見守る中代々木練兵場でテストを行うが、単葉の機体に無理があり、わずかに浮く程度の結果にとどまった。
1911M 44. 5. 5
奈良原三次、奈良原式2号機(ノーム50HP)で所沢飛行場を飛行。高度40m、距離60(70?)m。
1911 M 44. 6. 2
日本初の航空機用プロペラ製作
曲乗り飛行家、アート・スミスの愛機カーチスのプロペラ破損にに際し、製作依頼を受ける。北海道産の桜と桂を7枚あわせにして完成。スミスは、その後の飛行会を国産初のこのプロペラで行った。
1911M 44. 9
奈良原三次、奈良原式3号機を完成するも、エンジン差し押さえ。機体も突風により破壊。
1912 M 45
国産初の市販オートバイ
“N.M.C.
製作
4サイクル・単気筒 / 240cc
NS号を改良して排気量を240cc程度に抑えたオートバイが40台製作し、N.M.C.(Nippon Motor Cycle)号と称して発売した。日本初の市販オートバイである。
1912M 45. 3)
奈良原三次、奈良原式4号機「鳳号」(ノーム50HP)を完成。所沢でテスト後、川崎競馬場にて、民間初の有料公開飛行を行う。

1912M 45. 5.11-12)
奈良原三次、青山練兵場(明治神宮外苑)にて無料公開飛行。
1909 M 42頃)
軌道用車両
インスペクションカー 製作
4サイクル・単気筒 / 240cc
N.M.C号用に開発したエンジンを使用して、鉄道の軌道上を走るインスペクションカーを製作。国鉄・天王寺駅構内で行った試運転は十分に成功したが、時期尚早で採用には至らなかった。
1912 大正元年
1912 M 45
2人乗り乗用車製作
4サイクルSV6馬力エンジン
1910年のサイクルカーよりも、ずっと自動車らしい体裁の2人乗り乗用車。製作の経緯など詳細は不明だが、自製の4サイクルSVエンジンを搭載していた。
1913T 2
奈良原三次、奈良原式5号機(ノーム70HP)を完成。水戸と金沢で飛行。
1913 T 2頃)
3輪自動車
パイオニヤ号製作
大正初期に、エンジンはもちろん、車体もすべて自製の純国産3輪自動車を製作。兄弟の知人によって“パイオニヤ号”と名付けられた。楢蔵は後に東洋工業にて三輪車を設計するが、それよりも20年も前にこのような車両があった。
1914 T 3
第一次世界大戦勃発

1914-1916
T 3-5
大隈重信総理大臣就任
1914 T 3
ルノー型空冷V8エンジン(4000cc)試作
試運転中に破損。問題点に改良を加え、完成。
兄弟にとって初のマルチシリンダーエンジンは、ルノー型V8エンジンであったが、大金をかけて製作した試作1号機はわずか2分で破損。改良を加え完成にこぎ着ける。
    
1915T 4. 1. 3
ル・ローン星型9気筒80HPの修理整備を
萩田常三郎より依頼される
京都の呉服屋の子息・萩田常三郎がフランスから持ち帰ったル・ローン式9気筒エンジンの整備を任される。1915年1月に荻田が墜落死した際に、そのエンジンも破壊炎上し修理不可能とされたが、兄弟の手により再生。その後来日した宙返り飛行家ナイルスなどにより飛行した。この経験が、後の懸賞エンジン製作に大いに役立った。
   
1915 T 4
モーターボートを製作
エンジン:直並列4サイクル2気筒 10HP
時速:15ノット
研究に掛かる莫大な費用を父親の「丹金」の財力に頼りっぱなしの兄弟であったが、自ら資金調達する取り組みも開始した。その第一弾がモーターボートで、これを道頓堀に浮かべ旦那集相手の遊覧航行を行ったりもした。その他にも、無声映画電源用エンジンや、エンジン駆動のコンクリートミキサーなどを製作して資金調達を図った。
    
1916 T 5
第1回航空機用発動機懸賞 優勝
島津式星型回転式八十馬力発動機
星型9気筒80HP、V型8気筒90HPの2基のエンジンで参加。V8エンジンは不調で失格となったが、星型エンジンは30分以上の連続運転という競技要件をはるかに超える4時間03分間回り続け、優勝した。ル・ローン式の吸気系を改善しつつ模したエンジンであった。
    
1916 T 5
航空機用発動機懸賞優勝エンジン売却
中国・孫文と飛行家・尾崎行輝より
依頼を受ける
懸賞を勝ち残ったエンジンは、中国の革命家・孫文が懇望し5,500円で売却。また飛行家・尾崎行輝も同価にて購入。自身の機体に載せ大阪練兵場でよく飛んでいたが、その後ソ連陸軍に売却した。
   
1918 T 7. 1
関西初の自動車学校設立
「大阪島津自動車学校」
航空機用発動機懸賞での優勝で得た2万円の賞金を元手の一部に航空機製造の会社を設立することを計画した島津兄弟だが、内定していた発起人の1人の反対に遭い断念。関西初の自動車学校を開校することにした。
   
1919 T 8
島津銀三郎、山口姓となる
山口家の養子となり
山口金助の養女「頼子」と婚姻
兄弟の研究を支えた資金は山口金助が興し、兄弟の父島津常次郎が継いだ「丹金」の盛況によるものであったが、すでに他界した金助には子どもがなく、養女として「頼子」が姓を継ぐのみであった。そこで銀三郎が山口家へ養子で入り、山口姓と「丹金」の経営を継ぐことになった。
1923 T 12
関東大震災
1921 T 10
大阪島津自動車学校、廃校
阪急電鉄・豊中野球場のあった土地を阪急電鉄社長の小林一三に借り受けスタートした関西初の自動車学校であったが、大阪府下に自動車が200台しかない時代に4年間で300名以上の卒業生を免許所持者として出すに至り、時期尚早が誰の目にも明らかになり廃校。楢蔵がノイローゼになるなど、兄弟にとって辛い時期だった。
   
1925 T 14) 
世界最大排気量(当時)のオートバイ
Aero First製作
エンジン:SV単気筒633cc  / 6. 5HP
エンジン搭載方向:前方吸気搭載レイアウト
ギアボックス:前進3段、後進1段
サスペンション:伸縮両方向緩衝装置付き(日英米特許)
兄弟はオートバイの開発に原点回帰する。唯一それまでと違ったのは、この開発が初めて事業化を念頭に進められたことである。完成したサイドカー付きの1台を含む全6台のエーロファースト号は、事業化に向けたスポンサー探しを兼ねて、その高性能を示すべく長距離キャラバンを行うことになった。
   
1926 T 15. 2.11 - 3. 2
Aero Firstキャラバン隊編成
鹿児島東京キャラバンを実施
サイドカーを含む4台のエーロファースト号に乗り込んだ5名からなるキャラバン隊は、鹿児島・照国神社前を出発し、約1ヶ月後に東京の朝日新聞社前に到着した。道中、各地でモーターサイクル普及の講演会を開催しながら、企業の要人とも会い、スポンサーにも精を出した。
   
1927 S 2
日本初のオートバイメーカー
「日本モータース製作所」誕生
創業開始年は、大正15年、昭和2年と文献により諸説あり、現在確認中。
エーロファースト号事業化の話は、キャラバンの道程で交渉した相手とは前向きに進展しなかった。そこで兄弟は、帰阪してから大林組・大林義雄社長に相談をもちかけ、ついに支援が決まった。このようにして誕生した「日本モータース製作所」は、本格的な事業として数えることのできる、日本初のオートバイメーカーである。
   
1928 S 3. 3
Aero First量産型生産
エンジン:SV単気筒250cc
エンジン搭載方向:前方吸気搭載レイアウト
ギアボックス:前進2段
サスペンション:伸縮両方向緩衝装置付き
生産開始年は、大正15年、昭和2年暮、昭和3年3月と文献により諸説あり、現在確認中。
生産型のエーロファースト号は、日本人の体型に合わせたやや小型なフレームに250ccのエンジンを搭載したものだった。これに売価390円の定価をつけて、50〜60台/月のペースで生産販売を行う計画でスタートした。
1931 S 6
東洋工業3輪自動車製造開始
1933 S 8. 5
「日本モータース製作所」閉鎖
操業停止年は、昭和3年、昭和4年秋、昭和8年5月と文献により諸説あり、現在確認中。
エーロファースト号は、まったく売れなかったわけではなく、生産を終了するまでの間に200〜700台の完成車を世の中に送った。ただし、やはりこの事業においても時期尚早であった感が否めず、自転車もさほど普及していない時期にあって、オートバイは庶民の足にはほど遠い存在であり、量販を前提にした計画ではそろばんが合わないと判断され、工場は閉鎖された。
※文献により総生産台数が異なるため、現在確認中。
※追記:2011/07/31 テストライダーとして兄弟と共に活動した加藤重蔵氏のご子息より、同人のコメントとして「約500台」の生産数があったと伝え聞いているとの連絡をいただきました。
    
1934 S 9
島津楢蔵・神戸電機入社
山口銀三郎・丹金経営に
日本モータース製作所の事業が失敗に終わり、楢蔵は兄弟で取得した200件を超える特許・実用新案の中から電池や電灯に関する項目のいくつかを神戸電機(現・新神戸電機)に譲渡したのを機に、乞われて同社に入社し、サラリーマンとしての生活を始めた。銀三郎は「丹金」の経営者としての仕事を生業としつつ、新しい発明に取り組むようになった。
1933(S 8)
豊田喜一郎、豊田自動織機製作所内に自動車部を設立。

1936(S 11)
トヨダAA型乗用車、販売
1935 S 10
島津楢蔵・東洋工業入社
東洋工業(現・マツダ)創始者・松田重次郎は大阪に在住している頃から島津兄弟と面識があったばかりでなく、エーロファースト号のキャラバンで広島を訪れたときも一行を迎えてくれていた。ひょんなきっかけで楢蔵が神戸電機に勤めるようになったことを知り、それよりも自らの東洋工業で働くことを勧め、楢蔵もそれに応じた。
    
1936 S 11. 4
島津楢蔵・東洋工業にて3輪トラック
鹿児島ー東京キャラバンを企画、実施
楢蔵を広島へ呼んだ松田重次郎は、秘書として使うつもりだったらしい。ところが楢蔵がそれを断ったため、3輪車の設計試作を行うことになった。また販売力強化の一環として3輪車を使った鹿児島→東京キャラバンが企画され、重次郎はその隊長に楢蔵を選んだ。その他にも航空機を使った宣伝飛行など、楢蔵の経験を生かした業務が任された。
    
1937 S 12
島津楢蔵・帰阪
東洋工業大阪出張所長として
大阪出張所長として帰阪した楢蔵の仕事は、営業職としてクルマを売ることだったが、一方で月に2〜3度広島本社に出向いて、技術陣にアドバイスを与えるのも仕事になっていた。そのような環境の中で、様々な新しい技術的なアイデアをまとめていった。この頃になってもまだ、銀三郎宅へ寄っては2人で技術的な件について相談しあっていたようだ。
1941-1945 S 16-20
太平洋戦争
1941- S 16-
代用燃料装置の開発
アセチレン燃料車
楢蔵都銀三郎は、太平洋戦争の開戦に伴い発せられた政府による燃料の統制に際して、ガソリンに代わってアセチレンを使用する代替燃料装置を開発し、10件余りの実用新案も獲得した。また銀三郎は陸軍航空本部の依頼により、飛行機積載用の大型爆弾巻き上げ機を考案し、これを製作納入中に終戦を迎える。
    
1943 S 18
島津楢蔵・かまぼこ型燃焼室考案
メカニカルオクタンの追求
楢蔵は、かねてから研究に取り組んでいた燃焼室についての新しい理論を発表した。「かまぼこ型燃焼室」と名付けられた燃焼室は、メカニカルオクタン向上の重要性を前提に、その具現化を目指したもので、具体的には、表面積が小さく、燃焼距離が短く、スキッシュが発生するという特徴を持っていた。この理屈は、現代においてもなお通用するエンジン設計の基本的な事項である。
1947S14)本田宗一郎、ホンダA 自動自転車販売

1948
S.15.9.24
本田技研工業、浜松市にて創業


1944
S 19. 7.14
奈良原三次、逝去。享年66
1950 S 25. 8
島津楢蔵・3輪トラック用
ピンジョイントフレーム考案
楢蔵は「かまぼこ型燃焼室」に続き、3輪車用のフレーム構造についても新しいアイデアを考案し、特許を取得した。軽量で破損しにく安価で作れるフレーム構造だった。
1946 S 21
日本国憲法発布
1951 S 26. 3
島津楢蔵、GMF.ケッタリング博士に
「かまぼこ燃焼室」に関する意見を求める
マツダは戦後まもなく3輪車の生産を再開するが、自製の技術である「かまぼこ型燃焼室」には目もくれず、OHV+半球型燃焼室という欧米発の旧来の技術の搭載を日本初と誇らしげに宣伝した。この有様に閉口した楢蔵は、当時GMの副社長で米・自動車工学の権威でもあったF.ケッタリング博士に手紙を書き、半年後の9月には「かまぼこ型燃焼室」の優秀性を記した返事を手にする。これを受けて、1954年には「かまぼこ型燃焼室」を採用したCH型エンジンが登場された。楢蔵にとって技術者として、小さくても掲げなければならない大切な反旗だったのだろう。
    
1953 S 28. 8
ピンジョイントフレーム採用の
マツダCT1200cc発売開始
ダイハツでも同型フレーム車を発売
ピンジョイントフレーム(三角型フレーム)を採用した3輪車が、マツダCT型1200ccとして発売された。また同型のフレームは、ダイハツ製の3輪車にも採用された。
    
1957 S 32
山口銀三郎・ガスヒューズ開発
太平洋戦争突入の大きなきっかけのひとつとなった日支事変(日中戦争)開戦時に実施された金献納運動により「丹金」を廃業した後も、銀三郎は新技術の考案に暇がなかった。中でもガスヒューズは、構造が簡単で安価だったため一気に普及し、ガス中毒による犠牲者を激減させた。この功績が認められ、後に叙勲されることになる。
1964 S 39
東京オリンピック開催/東海道新幹線開通

1965
S 40
名神高速道路開通
1950s-1960s S 20年代-30年代)
島津楢蔵・各誌に寄稿
楢蔵は、1950〜60年代にかけてメーカーや工業界、雑誌社、新聞社の主催する試乗会や座談会、講演会へ招かれ、メカニズムやモータリゼーションについて意見を求められる機会が増える。また子ども向けの教育番組にも出演し、後進にメカニズムのおもしろさを説くといった活動も行った。
1966 S 41. 2.25
伊賀氏広・逝去。享年78歳。

1969 S 44
東名高速道路開通
1966 S 41
島津楢蔵・勲五等双光旭日章叙勲
山口銀三郎・勲四等瑞宝章叙勲
兄弟への叙勲は同じ年にあったが、その理由はそれぞれであった。楢蔵は「自動車界に貢献貢献した功」により、銀三郎はガスヒューズの開発など「都市ガスの保安、中毒事故防止の研究」により叙勲された。ともに、人生の最盛期だった島津モーター研究所後の活躍に対しての叙勲であることが、皮肉ではある。
1972 S 47
沖縄返還

1980 S 55 日本車生産台数1000万台で
世界一に
1973 S 48. 6.21
島津楢蔵・逝去 享年85
「艶人(エンジン)の声聴く度に思う哉、己が旅路の楽しさぞ知る」。楢蔵が晩年よく色紙に書いて人に贈った唄である。また「What is life, without love and motor」ともよく書いた。
“愛とエンジンがない人生なんて…”。
数多くの技術的功績を残しながら、経済的には決して成功を収めたとは言えない楢蔵の生涯であった。けれども、決して不幸な人生を送ったとは思っていなかった。その思いが読んでとれる唄である。楢蔵はエンジンと経済を重ねて考えることがほとんどなかったのだ。ただただ、愛してやまないエンジンに夢中になるうちに通り過ぎた人生だったのではないだろうか。
    
1988 S 63
山口銀三郎・逝去 享年94
兄・楢蔵に触発されてエンジンや機械に夢中になった銀三郎は、多くの時間を兄と共に過ごしエンジンの研究開発に費やした。島津モーター研究所後は家業の「丹金」をの経営に勤しみつつも、新たな発明・考案に取り組むようになる。特許・実用新案の数は百数十に及び、エンジン関係はもとより、現在でも広く身の回りにある実に多くのものを開発した。ごく一例に、押すと空気の力でお湯が出るポット、ラミネートチューブ、瞬間湯沸かし器の電磁水弁、オートバイの回転ハンドル式アクセル、酸化反応熱を利用する懐炉、マンガン乾電池のマンガン生成法等々があり、特にガスヒューズの発明は叙勲の大きな理由になった。大往生のその年まで新聞の折り込み広告の裏に新しいアイデアを書き留めているような生き様は、兄にも似て夢中のまま通り過ぎた人生だったに違いない。