クルマの達人 S&Sエンジニアリング/櫻井眞一郎さん
クルマの達人 S&Sエンジニアリング/櫻井眞一郎さん
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クルマの達人
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スカイラインの独自性
我々が守ったんです
執筆に必要なお話をすべて伺った後、初めて所有したクルマがスカイラインRSターボだったことを打ち明けた。恥ずかしくも、高校時代にいつも鞄の中に入れて持ち歩いていたそのクルマのボロボロになったカタログを机の上に取り出し、一筆いただきたいとねだった。
「あぁ。このクルマはねぇ、飛行機野郎のクルマなんですよ。スカイライン専用の6気筒エンジンを作りたかったんですけど、叶いませんでしてね。でも、このFJという4気筒は、プリンスの飛行機野郎が作ったエンジンなんです。ところで、あなたのこんなに大切なものを、私が汚してしまっていいんですか」
櫻井さん。スカイラインを生み続けてきたエンジニアとして、つとに有名であり、現在も自身のS&Sエンジニアリングで、クルマの新しい技術開発を先導する現役エンジニアでもある。
「私が入社した頃のプリンスは、まだ多摩自動車という社名で、自動車の運転が出来る人間が、私を含めて3人しかいないような会社でした。それもそのはずで、もともと立川飛行機といって、戦時中は軍用機を作っていたんです。だから、自動車ならではの仕組み、例えばサスペンションだとか操舵系なんかの知識は、自動車工学を勉強して入社したての私を頼ってくるような案配でして。それでも、人真似じゃないものを作ってやろうという気概だけは、うんと強かったですね。スカイラインという乗用車を作ろうって話になったときも、その雰囲気は同じでした。
当時、日本のほとんどの自動車メーカーというのは、まだまだ自社ですべてを開発出来るような段階じゃなかったんです。日産はオースチンを、いすゞはヒルマンをという 具合に、あちらで設計されて完成したクルマを国内で同じように作るだけのノックダウンが主流でしたから。
ところがプリンスは飛行機野郎なわけです。飛行機野郎っていうのは、兵器を作ってたわけですから、すでに飛んでる飛行機がやってないことをやらなきゃ、撃ち落とされちゃうという意識の中で育ってきた技術者集団なんですね。だから初代スカイラインの開発も、まさにそんな勢いでした。新しいことをどんどん試して取り込んで。重役が、放っておくと櫻井に会社をつぶされると言ったほど、新しく人真似でない自動車作りを経て完成したんです」
やがて自動車会社統合の国策に従って、プリンスは日産自動車に吸収合併される。
「日産というのは、とても商売に長けてる会社でしてね。ところがプリンスから来た技術者は、どんな小さな部品にでも十分に手をかけて、出来た出来たというのが嬉しいような人間ばかりでしたから、同じものを安く大量に作るような技術には馴染まなかったんですね。
ある時、次期スカイラインをブルーバードに統合しようという話が持ち上がりまして。プリンスのグロリアが、日産のセドリックのお飾り違いの自動車になったのと同じ手法でスカイラインを作ろうということになったんです。そこでブルーバードの計画図を見たんですが、とてもスカイラインの名に相応しい走りは出来ないって思いました。ずっとノックダウン中心の自動車屋だった日産には、まだ素晴らしい技術者が育ってなかったんですね。ところが私たちは、吸収合併された側の会社の人間ですから、即座にイヤだとなんて言えませんでね。もうスカイラインの設計はほとんど済んじゃってるし、出来るだけ部品の共通化を図りますから、みんなで一生懸命やってきた努力を消さないでくれって言って、スカイラインを守り通したんです」
“箱スカ”と呼ばれて愛された3代目スカイライン。510ブルーバードの兄弟車になることなく、登場することができた。
「スカイラインは、このカタログの6代目まで、ブルーバードやサニーを設計していた鶴見ではなく、プリンスの技術者が荻窪の研究所で設計していました。だから、これは飛行機野郎のクルマなんです。
ここにサインすればよろしいですか。懐かしいですね、いいクルマでした」
クルマに情を感じた
小学6年生のことです
「私は子供の頃に大病をしましてね。田舎で療養するよりないと、医者にも見放されたんです。そういうわけで越した先の海老名の家で、動物をいっぱい飼いまして、まるで兄弟のように仲良くなっちゃったんです。そういう毎日を過ごしていた ある日、たまたま通りがかったトラックの運転手が、私をヒザの上に乗せて、運転の真似ごとみたいなことをさせてくれたんです。子供心に大変なショックを受けましてね。なんて素直なもんなんだろうって思いました。鉄のかたまりというかそういうものに、まるで飼ってる動物と同じような情が伝わるのを感じたんです。
神様、もしもこのまま生きられる命をくれるなら、私は海軍大将とか陸軍大将とかでなく、自動車作りがやりたいです、って。それ以来、どうやったら、どこへ行ったら自動車作りができるんだろうということばかり考えるようになりました。そういうわけで、自動車関係以外はほとんどやってない、そういう生き方をすることになったんです。
ただこの歳になってね、作って売ればいい、儲けりゃいいっていう会社の方針に従ってやってきたことが、本当に良かったのかなって思いますよ。排ガスで地球を汚染し、地球を傷つけるほど量産してきた。それに対してお詫びの仕事をしてからじゃなきゃ、あの世に行ってぶん殴られちゃう。だから、排ガス対策の仕組みを何とか成功させたいと思って、取り組んでる最中なんですよ」
本当にいいクルマとは、今すぐに欲しいクルマではなく、ずっと乗っていたいクルマ、作り手の感性に痺れることの出来るクルマ。そういうクルマを作り続けてきた櫻井さんなのである。感謝。
copyright / Munehisa Yamaguchi
Car Sensor 2004 Vol.41掲載
「スカイラインは飛行機野郎のクルマ
人真似でないことが美しかった」
動物のような"情"を感じるクルマ作りの達人
S&Sエンジニアリング/櫻井眞一郎さん
少年時代に体験したクルマへの感動を原動力に、人生を自動車開発一筋で貫いた櫻井さん。清水建設からプリンス自動車工業へ入社し、スカイラインの開発に携わる。同社が日産自動車に吸収合併された後も数々の自動車技術を開発。スカイラインは2代目54B型開発の中盤から、6代目R30型まで開発主査を務めた。現S&Sエンジニアリング社長の76歳。
※年齢等は、"CarSensor"誌に掲載時のものです。 2004 Vol.41掲載
Ph. Rei Hashimoto