クルマの達人 テスト アンド サービス/稲葉昭平さん

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クルマの達人

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クルマの達人

 
 

勝った時の喜びが

レースに夢中にさせる

 何かに取り憑かれてしまうことがある。それが人生のほんの一瞬の出来事ならば、ヤツは夢中になってるなどと、本人も周囲も茶飲み話のネタにする程度のことで済むのだが、何十年もそこへ突っ込んだ首が抜けないとなると、それはもう真剣勝負。何が彼をそうさせているのか。

「勝ったときの喜びなんだよね。やったやった、って。もちろん機械が好きとか、クルマが好きとか、そういうことは根底にあるんだと思うよ。でもね、それだけなら普通に、街乗りのクルマだけを整備しててもいいはずだよね。どう言えばいいんだろう。それだけじゃ挑戦していく実感に乏しいのかなぁ。

 レース、それも草レースじゃなくて、お金払って観に来てくれるお客さんもたくさんいるようなカテゴリーのレースとなるとね、戦う相手も真剣勝負。レベルだって、一瞬気を抜くだけであっという間にひっくり返されてしまうくらい高いでしょ。クルマを走らせるために、スポンサーさんから預かってるお金だって、とんでもない金額だし、責任も大きい。スターティンググリッドに並ぶどのクルマも、みんなそういう背景を背負ってサーキットにやってくるんだよね。その中で、一等賞をとったときの嬉しさがたまらないだよね、きっと」

 ちょうど、次のレースに向けての整備を完了したばかりのランサー・エボリューションが作業場にあった。シーズン2連覇を目指して、スーパー耐久レースに参戦中のマシン。若いメカニックがサーキットへ持っていく予備エンジンや工具などをトラックへ積み込む傍らで、稲葉さんといえば、ときどき「あれとあれは、忘れずちゃんとにね」と声を掛けながら、ほうきと塵取りを手に床を掃いている。

 メカニックを始めて36年。サザンクロス、サファリ、RACなどの海外ラリーや、スタリオンでのサーキットレースなど、ミツビシのレース黄金期を現場で支えてきた自分の親方が、率先して雑用をこなす姿を横目に若い連中が何を感じ取るのか。

「僕らの時代は、最初はかばん持ちって呼ばれてたよね。先輩メカニックの横について、必要な工具をハイッハイッて差し出すの。仕事が終わったら、何もかも全部片づけやってね。丸2年、そんなだったよ。同じ工場で働いてるっていったって、エンジンをチューニングするノウハウや、サスペンションのセッティングなんかは、個々のメカニックの秘密ごとっていうのが当たり前で、教えてなんかくれなかったし。さり気なく見ながら技術を盗むくらいの意識がないと、伸びていけなかったから。でも、今はそういう時代じゃないでしょ。エンジンの組み方だってなんだって、知ってることなら教えるようにしてるよね」

 必死になってバラバラのエンジンと格闘している若いメカニックの横に立って、ここが肝心だから注意して、と言葉をかけ、オイルを抜き取るような簡単な作業にさえ、手を貸し言葉をかける。気がついたら、床を掃いている。

 この稲葉流が決して軟弱な今風に甘んじているだけでないということは、サーキットのピットを訪ねて初めて分かる。迅速な仕事が求められるレース中のピット。川崎のこの作業場から一転、必要なこと以外口にしなくなる稲葉さんの指示に、瞬間的に反応する若いメカニックたち。そんな格好のいいもんじゃないんだから勘弁してよ、と笑う表情が目に浮かぶが、紛うかたなく、これが稲葉流信頼関係。


軽でもミニバンでも

整備してあげますよ


 一線級のレースメカニックの施しを自分の愛車に受けることなど適わぬ夢。そう思って、何とかならないものなのか訊ねた。

「レースシーズン中は、なかなか時間がとれないんだけど、スケジュールさえ都合をつけてくれるなら診てあげますよ。でも僕はずっとミツビシ車ばかりやってきた人間だから、他のクルマのノウハウはないですよ。1度だけGr.AのBMW-M3に携わったことがあるけど、その他はラリーカー、ツーリングカー、フォーミュラカー、すべてミツビシ。クルマは基本的にはどれも同じだから、どこのメーカーでもまったく分からないなんてことはないんだけど、せっかくなら他と違うウチだけのノウハウでいじってあげたいじゃないですか。だから、ミツビシのクルマに乗ってる人で、もっと自分の考えてるような走り味にしたいとう考えがあるなら、相談しに来てくれるといいね。

 雑誌で読んだり、あまり経験のないチューニングショップで色んなこと吹き込まれて、ワケが分からなくなってるなら、メカニズムの話じゃなくて、どういう風に走りたいかを一緒に相談するといいね。例えばランサーだったら、去年スーパー耐久でチャンピオンとれたセッティングのノウハウ、たくさん盛り込んでクルマ仕上げたりとかね、出来ますよ。出し惜しみするようなことじゃないから。あ、例えば軽とかミニバンでも構わないよ。ここをこうすると、ほらね、みたいな触り方のツボ、どんなクルマにでもあるもんだから」

 話を聞き終わってノートを鞄にしまいながら、作業場の脇にある小さな部屋の天井を懐かしく見上げた。実はチームマネジャーとして、稲葉さんと2年ほどレースの現場を共にしたことがある。缶コーヒーすすりながら勝ったレースの話で深夜まで盛り上がったのも、勝てないレースが続いていい歳した男同士泣いたのも、この部屋だった。もう10年以上も昔の話だが「じゃヤマ、よろしくね」と背中を見送ってくれる人なつっこい笑顔は、変わってなかった。今、私はレースの世界にいないが、稲葉さんは来週もサーキット。ひとつことに取り憑かれた男の不思議な魅力を強く感じながら、レースを観に行く約束をして作業場を後にした。


copyright / Munehisa Yamaguchi

Car Sensor 2004 Vol.19掲載

 

「レースで勝てるクルマのノウハウを

 みんなにも楽しんでもらいたいね」

ミツビシ車、整備&チューニングの達人

テスト アンド サービス/稲葉昭平さん


工業高校を卒業後、100%三菱自動車の子会社の整備工場にメカニックとして入社。いくつかあった部門のうち、レース車両開発へ配属となり、以後三菱自動車のワークスチームで、ラリー、サーキットレースなど多くの車両を担当。現在は、テストアンドサービスで、ランサーエボリューションをスーパー耐久レースに送り込む54歳。

年齢等は、"CarSensor"誌に掲載時のものです。 2005 Vol.47掲載

Ph. Rei Hashimoto