クルマの達人 車工房カンノ/管野照男さん

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クルマの達人

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クルマの達人

 
 

辛抱することが

最初の仕事でした

 “管野、おまえ今つらいだろう。でも、なぁおまえ、あと2年辛抱しろ。手子(てこ)3年は、この後2年の前哨戦。5年もすれば一人前になる。そこまで頑張れたら、一生メシ食っていける。5年辛抱できない奴は、何の仕事についてもどこかで食いっぱぐれるぞ”

 中学を卒業したばかりの右も左もわからない若者が、親戚の勧めるままに鈑金工場に就職した。昭和20年代の町工場。就職というよりは、丁稚奉公。朝8時の始業時間よりもずっと早く工場に着き、掃除と先輩や親方の仕事の準備。慣れない段取りの悪さを小突かれたり怒鳴られたりしながら、途中まで仕上がったクルマの様子と次の作業の内容と必要な工具がようやくイメージできるようになってきた。それでもまだ、手子は手子。仕事は職人の介添え。言葉で技を教えることのない職人たちの脇に付いて、来る日も来る日も目で見て頭で考え自分なりに理解して、覚える。そんな毎日が、もう3年。つらい。

「まだ10代だった私にとって、自分から仕事のことを尋ねるのもおっかないような親方でしたけど、面と向かってそう言ってくれたんですよ。普段気にかける素振りなんかまるで見せないのに、もうやめたい! って心底つらくなったときに、親方から声をかけてきて、そう言ってくれたんです。見てくれてるんだなって思うと、うれしかったですよね。

 それからですよ、本当に一生懸命やったのは。少しずつ実際の鈑金作業も仕込んでくれるようになって、興味がわいてくると面白みを感じるようにもなってくるもんです。今度は、5年経ってもダメな奴は本人の努力が足らない証拠だからな、って発破かけられながら、結局その工場では10年くらい働かせてもらいました。厳しかったですけど、とても沢山のことを教えてくれた親方でしたよ」

 70歳を迎え、なおハンマーを振るう菅野さんの鈑金職人としての原点。まるで去年の出来事のように、鮮度の高い言葉で話してくれた。


職人気質(かたぎ)とは

仕事で勝負すること


 栃木で工房カンノを営む菅野さん。塗装を受け持つ息子と二人三脚の、小さな工房である。国産、輸入車、あるいは新旧の隔てなく、傷ついたクルマの復元を引き受けてくれるここが、知る人ぞ知る名工のいる工房であることは、時折入庫しているクラシックカーの姿に出くわしたりしない限り、恐らく誰にもわからない。高価なフレーム修正器や工作機械があるわけでなく、コンクリート敷きの作業場で最も目立っているのは、ハンマーや当て金が放り込まれた持ち運べるほどの大きさの工具箱。それでも、現存すること自体に価値があるような貴重なクルマが、菅野さんの手に委ねられるのはどうしてなのだろう。

「本当に鉄を叩ける職人が少なくなっちゃったのかもしれませんね。今どきの修理は、部品を交換することが前提で仕事が進みます。ボコボコに凹んだボディを叩いて直す人件費よりも、電話1本で届く新品パネルの方が安いとしたら、交換したほうがいいに決まっているでしょ。鈑金っていうのは技術職だから、そういう修理ばかりが増えてきて、ハンマーを振るう機会が減ってしまったら技は上達しないんです。

 私らの時代は、新品パネルはとんでもなく高価だったし、輸入車なんかだと待っても待っても手に入らないような部品もたくさんありました。だから、何でもかんでも手仕事で直しちゃうのが当たり前だったんです。鉄だってアルミだって叩きましたし、どうしても叩けないような場所は、ハンダを盛って形を作りました。まともなパテがなかった時代の職人は、みんなやけどをしながらそういう技術を身に付けてきたんです。昔とった杵柄っていうんでしょうか。今となっては、そういう手仕事が必要な仕事は、私のような古い時代の技術を身に付けた者を頼るしかないんでしょうね」

 古い職人の技術だからと笑う菅野さんだが、現在の天皇がかつて皇太子のときに乗られていた1台目のプリンススカイラインを、ご成婚の機に合わせて展示するためのフルレストアを任されたこともあると聞けば、その腕前も推して知るべしなのである。

「クラシックカーばかりじゃなくて、普通に使っているようなクルマも直しますよ。妙なこだわりばかりが先行すると、食べることもままならなくなっちゃいますからね。費用ですか? 普通ですよ。仕事ってのは、お金だけ追いかけて道筋決めるものじゃないでしょ。逆に、お金さえ出せば何でも手に入るっていうことでもないんですけどね」

 職人気質(かたぎ)っていうのは、職人であることに堅気(かたぎ)を尽くすってことだよ、と教えてくれた。堅気を尽くすっていうのは、つまりどういうことですか、と尋ねると、そりゃ仕事で勝負するんだという気概を持つことさ、と答えてくれた。

 暑いからのどが渇くでしょう、と何度もお茶を注ぎ足してくれる気遣いと、自らの仕事に見いだした生きがいを語る言葉の力強さとのギャップに、不思議な男気を感じる菅野さんであった。


copyright / Munehisa Yamaguchi

Car Sensor 2003 Vol.34掲載

「ボディパネルを叩いて直す

 それが私のなかの職人気質です」

鈑金の達人

車工房カンノ/管野照男さん


15歳で東京・東十条の鈑金工場へ就職。厳しい親方の下で10年勤め、自動車鈑金の技術を習得。その後、何軒かの鈑金工場に勤め自らの技術を試した後、34歳の頃独立。従業員を雇い工場を経営する社長業に、職人として家庭人としての限界を感じ5年で終止符を打つ。栃木県に居を移しディーラーの鈑金部門に勤めた後、再度独立。親子2人の車工房カンノで日々鈑金の70歳。

年齢等は、"CarSensor"誌に掲載時のものです。 2003 Vol.34掲載

Ph. Rei Hashimoto