クルマの達人 富士重工業/辰己英治さん

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クルマの達人

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クルマの達人

 
 

技術者の意識改革を促した

初代レガシィの大ヒット

 超一級のボクサーは、実際の運動量を感じさせないほど軽やかにリングの上を舞ってみせる。1周回ってみますか、という誘いにリアシートに乗り込み、曲がりくねったテストコースを走る辰己さんの運転を肩越しに見た。ハンドルをスルスルと両の手のひらの中で回す運転席での軽やかな姿に見とれながら、リズムよく前後左右に揺られているうちに、あっという間に1周回ってきてしまった。ひと目でわかる、超一級のプロの舞い姿である。

「初代レガシィの開発は、この栃木・葛生(くずう)のコースではなく、群馬のコースで行われました。私はまだ一実験要員という立場だったんですが、思い通りにいいクルマを作ってみろという環境を与えられて完成させたんです。走る性能に関しては海外のメーカーをも含めた同クラスのどのクルマにも負けないという思いで取り組んだクルマでした」

 レガシィは空前のヒット作となり、社内的にもそれ以降のクルマ作りに大きな影響を与えた。

「世の中には、クルマなんて見かけが良くて動いて安ければいいんだっていう多くの人と、自分を主張する何かが備わっていて欲しいと願う少しの人が存在するんです。

 前者は他のメーカーに任せておけばいい。スバルは後者のお客さんに選んでもらえるようなクルマ作りをしよう。エンジニアの自己満足かもしれないけど、ともかくそういう意識が我々の中には強くあったんだという事実を再確認したレガシィのヒットだったんです」

 辰己さんにとっては、あの走り味を仕上げたエンジニア、として知られるようになったことでも大きな意味を持つ初代レガシィの成功。クルマは多くの人の総力で完成させるものだということを知っていても、それ以降登場するスバル車の走り味には、辰己さんのさじ加減が少なからず感じられるようになった。自動車業界だけでなく、新型車が登場するたびにスバル車ファンの中にもそう思う人が増えていった。辰己さんは、今やスバルのクルマ作りの顔なのである。


絶対に世界一を作る

その思いが大切です


 水平対向エンジンや4WDシステムを駆使した技術自慢の高性能車。それが疾走する青いボディに思わず振り返るスバル車の印象。現代では技術的課題の多くは、コンピュータ解析で解決できるとする意見もあるのだが、それでも人が額に汗かき走らせながらでないと宿らせることができない性能とはなにか。

「例えば想像よりもずっとよく曲がることができる楽しさと、決してスピンさせない安全性を両立させたいと考えたとします。電子制御でやっちゃうのは意外と簡単なんだけど、果たして運転の気持ちよさが並行してついてくるかというと、実ははなはだ疑問だったりするわけです。

 ならばそれ、電子制御使わないでやってやろうよって。それが技術じゃないかって思うわけです。電子制御が介入して危険を回避するポイントをぐんと先へ進めてやって、そこに至るまでは運転を楽しむことに夢中になれるクルマが作りたいんです」

 すぐに生産車へ搭載すると決まっているわけではない先行技術開発も担当する辰己さんだが、日々のテストでは重箱の隅をつつくような細かな仕様変更を指摘し改善することに明け暮れる。まったく新開発の仕組みを取っ替え引っ替え試すというわけではないのだ。

「生産車の開発では、2つ以上の性能を両立させながら進化させるということが求められます。つまり抜群の操縦性だけど、大きな音がするとか耐久性に疑問が残るというのではダメなんです。これは実に難しいテーマで、例えば同じ構造の機械の中で考えられる3つの方法では案件は解決しない、というような壁にぶつかる ことは日常茶飯事です。もうお手上げかと感じながら、それでも可能性を探って研究し続けるわけです。そうすると、4つ目5つ目と新しいアイデアが浮かんでくるものなんですね。

 そのためには技術者が問題解決にどん欲になることが、何より大切なんです。オリンピックの選手だって、メダルが獲れればいいな程度の熱さでは予選にだって通らないかもしれないでしょ。どうしても金メダルを獲るんだ! っていう意気込みがなきゃ、技術なんて絶対に進歩しないんです。クルマだって同じです」

 若いエンジニアを従え、スバル車の味付け職人として先頭を走ってきた辰己さんだが、間もなく定年で富士重工を後にする。

「後身の指導も重要な仕事だと感じる歳になってきましたね。実際にそのような活動もしていますが、オレが若い彼らに伝えたいことは、テストっていうのはこうやるんだぞなんてことじゃないんです。設計や実験のプロセスなんか、常識的なルールとしてどこのメーカーの技術者でも知ってることですから。

 大切なのは作り手としての心根なんです。おまえたち普通のままで終わりたくないだろ。おもしろいクルマを探しているお客さんに、やっぱりベンツの方がいいなんて言われるクルマ作りに人生掛けたくないだろって、そういうことなんです。だったら世界の2番手を目指そうみたいなバカな目標を立てるんじゃないぞ。やるからには世界一ワクワクするクルマを作るんだって心に誓うのが技術屋ってもんだろう。それを言い続ける上司の存在が彼らには必要なんです」

 スバルでのクルマ作りを終える辰己さんだが、彼のクルマ作りはきっと終わらない。いつかどこかであの熱い思いを備えたクルマに再び触れる日を夢見ながら、ひとまず辰己さんによるスバルワールドに幕を引こう。青い興奮をどうもありがとう。


copyright / Munehisa Yamaguchi

Car Sensor 2006 Vol.32掲載

「技術者の熱い心根が何より大切

 そういうスバル車を作ってきた」

僕らが大好きなスバルの走り味を作った達人

富士重工業/辰己英治さん


北海道の工業高校を卒業後、富士重工業に入社。特にクルマが好きというわけで選んだ仕事ではなかったが、日々クルマの開発にかかわる中で、ものを作る楽しさに魅せられ、走行テストや先行技術開発を通じてスバル車の走り味の一時代を築いた55歳。間もなく同社を定年退社する予定。

年齢等は、"CarSensor"誌に掲載時のものです。 2006 Vol.32掲載

Ph. Rei Hashimoto