クルマの達人 猪本義弘さん

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好きだから描いていた

それだけのことですよ

 あなたは何が得意だろうか。自分で得意と口にするのが少々照れくさいというのであれば、何が好きなのだろうか、と問われれば答えやすいだろうか。もうひとつ。あなたは好きなことを仕事と切り離して、趣味として謳歌しているのだろうか。それとも、それを生業として日々勤しむことで糧を得ているのだろうか。好きこそ物の上手なれ。ひょっとしたらあなたの手仕事は、誰かが感嘆する素晴らしい作品の域に達しているかもしれない、達するかもしれない。

「私の場合、イラストを描くということをストイックに追求した結果、それが仕事になったというわけではないんです。だから道を究めるべく精進されている職人さんたちを紹介するようなページに登場するのは、ちょっと違うかもしれませんよ。とにかく自動車が好き、という気持ちだけで続けてきたら、自然に今のようなことになったというだけですから」

 テクニカル・イラストレーション・アーチスト。猪本さんの名刺には、そのような肩書きが記されている。クルマ好きなら、何度か目にしていることがあるのではないだろうか。外板に覆われたメカニズムの様子が、スケルトンのように描かれたイラスト。パーツの構造や配置が分かるだけでなく、それら個々の断面や素材の質感までもが緻密に表現された、まさに芸術と呼ぶにふさわしいイラストである。

「資格を取って建築方面に進みたいと思い、友人の父親が経営する建築会社に勤めていたんです。その時にオート3輪っていうトラックに乗る機会がありましてね。バイクみたいなハンドルが付いてる乗り物で、そりゃお世辞にもいいなぁと思えるようなものじゃなかったわけです。私は戦後のドタバタを知っている世代で、進駐軍が乗り回していたジープに強烈なショックを受けた人間でしてね。アメリカには、すでにこんな高機能でカッコいいクルマがあるんだっていうことが脳裏に焼き付けられていましたから、ヒーターすら付いていないオート3輪が余計に寂しい乗り物に見えたんでしょう。ひょっとしたら日本の会社は、未来永劫こんなものを作っていくつもりなのかって、自分なりに思ったわけです。そこで、そのオート3輪の会社が毎月発行してた冊子の論文募集に応募したんです。20歳の時です」

 しばらくして猪本さんの手元に、本社工場へ見学に来ないか、という誘いの手紙が届いた。もちろん興味津々で誘いに応じた。

「到着したら、いきなり社長室へ通されましてね。社長直々にウチらしい4輪車を考えてくれないか、って言うわけです。つまり入社しないか、ということだったんです。結局、論文で私が提案したキャブオーバーの4輪トラックは、当時の人たちの通念外のものだったんですね。理解してもらえずにボツッちゃいましたよ」

 建築家志望だった熊本の青年は、このようにして自動車の世界に飛び込むことになったわけだが、そのこととイラストを描くということと、どういう関係があるのだろうか。

「だから、関係ないんですって。私は小さい頃からちょこちょこと絵を描くのが好きで、教室でもノートの隅っこに落書きみたいなことをしてたような子供だったんですよ。そのうち機械のメカニズムに興味が湧いてきて、空想の機械を書いてみたりね。フリーランスのイラストレーターとして仕事を始めたのは、40代も半ばを過ぎてからですし。好きで続けていて、それ面白いって言う人がポツポツ現れるようになって、それでも会社勤めを生活のベースに置いて……。イラストを本業にする人生もいいかなぁ、って考えるようになったのは最後の最後なんです。イラストでお金儲けをするということよりも、好きなことを楽しく、もっと深く追求していきたいという気持ちのほうが、ずっと強かったですからね」


美しい部分は大きく描く

自己表現ですからね

 東京に本社のある自動車メーカーに転職するために上京した猪本さんは、東京での身元を引き受けてくれたのが出版社の社長だったという縁もあって、自動車雑誌にイラストを寄稿するようになった。

「クルマのことを絵で解説するページがありましてね。年に数枚、描いたんです。その雑誌を見たという人から、カタログやポスター用の絵を描いてくれないかっていう仕事が徐々に増え始めたというわけですね。あのね、ひとつ面白い話をしましょうか。私のイラストは、私の空想の世界も盛り込まれているんですよ。もちろん機械の仕組みや構造は、実物に可能な限り忠実に再現してあります。ただし、ここがこのクルマの最も素敵なポイントだって感じる部分は、少し強調するように表現してあります。例えば胸打つような素晴らしいエンジンを少し大きめに描いたりね。私は設計図を描いているわけではないし、コンピュータが示すような図面を代筆してるわけでもないんです。あれは私の気持ちを表現するひとつの方法だということなんですね」

 個性がない、などという人間はこの世に存在しない。生活のどこか片隅でもいい。抑制されないありのままの自分を表現する瞬間が持てれば、なんと素敵なことだろう。猪本さんは大好きなクルマを大好きな絵に描くことをその術に選んだ。

 不格好な絵でもいい、ピントのボケた写真でもいい、不自然な文章でもいい、大声で歌うことでもいい。なにかひとつ、自己表現の術を持つことの素晴らしさを感じさせてくれる猪本さんの作品と生き方なのである。


copyright / Munehisa Yamaguchi

    Car Sensor 2002 Vol.47掲載

《追記・猪本さんとのこと》

 

「仕事にしようという動機ではなく

 好きなんだという衝動で描くんです」

テクニカルイラストレーションの達人

         猪本義弘さん


子供の頃からイラストを描くのが好きだった猪本さん。イラストを仕事にするつもりではなかったが、とあるきっかけで雑誌に掲載されたイラストを発端に、徐々に仕事として描く機会が増えるようになり、40代半ばにして独立。テクニカルイラストレーション作家として、世界的に著名な69歳である。


年齢等は、"CarSensor"誌に掲載時のものです。 2002 Vol.49掲載

Ph. Rei Hashimoto