クルマの達人  義正さん

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日産時代の忘れ物は

ル・マン24時間での勝利

 教壇に立っている林さんの姿を久しぶりに拝見した。東海大学で教鞭を取るようになって早11年目になる講義は、私が言うのもおこがましいがすっかり板に付いた印象で、次から次へと紹介される興味深い話に、大きな教室を埋め尽くした学生たちも目を輝かせて聞き入っている。

 私が最初に林さんと言葉を交わしたのは、15年ほど前の富士スピードウェイ。グループCというカテゴリーのレースが開催されていた週末のニスモのガレージでのことだった。決勝前の慌ただしいスケジュールの中、何をどう訊ねればいいのかさえ分からないまま突然現れた新米記者を相手に、走行を終えたばかりのマシンから外した点火プラグを並べて説明してくれた。

“ね、8本きれいに色が揃って焼けているでしょ。しかもほら、表面がこういう感じなのは、とてもエンジンの調子がいい証拠なんですよ。明日のレースはきっといい走りをお見せできると思いますから、どうぞ応援をお願いしますね”

 無知で失敬な小僧はそんな林さんの対応に、なんて親切な人なんだ、ということくらいしかイメージできずにいたのだが、腰丈ほどしか高さのない地を這うようなそのレースカーに、猛烈な愛情を感じている様が強く伝わってきたことは鮮明に覚えている。

「’80年代後半のレース界での日産は、出ると負ける日産と言われるほど散々だったんです。私が副社長にCカーのレースを見てこいと言われて、富士スピードウェイへ行ったのは’87年のことです。会社に戻って、どうだったかと聞かれたので “いやぁポルシェの後ろ姿も見えませんで、ジャガーなんてぜーんぜん遙かかなたです、ハッハッハ”と笑ったら、バカおまえがやるんだぞ、って。そのとき私が受けた指示は、そのシーズンも含めて3年以内にシリーズチャンピオンを獲れというものでしたから、そりゃ厳しかったですよ」

 日産は林さんの設計による新しいエンジンを手にし、’90〜 ’91年と同カテゴリーを3連覇。その勢いは止まらず、’92年には有名なデイトナ24時間レースで日本車初の総合優勝を手中に収めるに至った。林さんはエンジニア。私が親切な……としか感じることができなかったその日、墜とすべき目標をジッと睨みつけるもうひとつの顔があったことに私は気が付かなかった。

「日産にいる頃に、ひとつ忘れ物がありましてね。ル・マン24時間レース、いただいてないんですよ。勝ちたいですね」

 教壇に立つ現在は、もうひとつの顔でル・マンを見ているのだ。

感性豊かでない人は

いいものを作れない

 レースにあまり詳しくない人のために、もう少し身近な話題を伺おう。市販車との係わりは?

「私は日産に入社して間もなくレース部門へ放り込まれたんですが、排ガス対策が世界的な問題になったときは、排ガス対策部隊へも行きましたし、ボディの音や振動などの解析をしていた頃もあります。その後、先ほどお話しした経緯で再びレース部門へ戻るんですが、そのときも市販車に関係する開発のお手伝いをしましたよ。

 例えばスカイラインGT−Rに搭載されたRB26DETTというエンジン。市販状態では280馬力に抑え込まれてますが、レースでの使用も考慮した設計で、R32型の時は乗用車の開発陣によって400馬力程度のポテンシャルを持っていました。ところがR33型になったときに、車両重量の増加に対応したパワーが必要になって、私のところでチューンしたんです。バルブタイミングや吸排気系、圧縮比、フリクションロスの低減なんかを見直した結果、トラブルの心配なく470馬力は出るようになりました。同じ型番なんですが、R33のRB26DETTは、日産のワークスレース部門がチューンしたエンジンなんですよ。

 MID4というコンセプトカーに搭載されたVGエンジンも、当時200馬力くらいしか出せてなかったんですが、300馬力出せないかと言われましてね。すぐに350馬力出ちゃいましたけど、いや300馬力でいいんだって言われてちょっと抑えておきました。もう完全に市販できるレベルにまで完成していて、100台限定で売り出す予定だったんですけど残念でした。いい走り、してましたよ」

 数々の特許を含む功績を残し、Y・HAYASHI は世界で知られる名前となった。後に続きたいと願う若者たちが、熱い眼差しで講義に向かうわけである。

「技術力は、感性、知識、経験の3つがバランスしてないと、正しい形で表現することができないと思うんです。現代のエンジニア教育というのは、学生時代も就職してからも、どうも専門知識の追求に重点を置きすぎるような傾向があるんですね。私は感性を大切にしたいと考えています。豊かな感性のないところに、決して人の心を打つ結果は生まれません。若い人たちにはぜひ、感性を磨く生活を送ってもらいたいと思いますよ。

 “近頃の若者は”なんて言う大人がいるでしょ。実は私も教壇に立つ前はそれほど期待していなかったんです。でも、実際は素晴らしい学生さんが本当に多いんですよ。近い将来、彼らを中心としたチームでル・マンに出ることを計画しています。世界最高峰の現場が、感性を磨き、経験を積む素晴らしい機会になればいいと思っているんです。何が起こるか、今からワクワクするほど楽しみなんですよ」

 きっと間もなく再びサーキットで林さんの姿が見られることになる。ガレージを訪ねて、今度は何を訊ねてみようか。


copyright / Munehisa Yamaguchi

    Car Sensor 2005  Vol.21掲載

 

人の心を打つクルマというのは

つくり手の豊かな感性の賜物なんです」

つくり手の息吹が備わるクルマを生み出す達人

      Professor, Engineer /林 義正さん


1938年生まれ。日産自動車の市販車用エンジン技術はもとより、同社ワークスレース活動の中心人物として活躍。デイトナ24時間耐久レースでの日本車初優勝の立役者でもある。1994年より東海大学工学部動力機械工学科の教授として教壇に立ち後進の指導に当たるが、いまだ新技術の開発やレース活動へ強いロマンを抱く現役エンジニア。


内容はすべて"CarSensor"誌に掲載時のものです。 2005 Vol.21掲載

Ph. Rei Hashimoto