クルマの達人
都地龍哉さん・上出優之利 写真個展「クルマの達人」
2025/07/18 18:13 Filed in: “書き”のお仕事
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【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
四人目は……
都地龍哉さん
とぢ商店
一等賞以外はみんなビリ。
自動車の登録はそういう仕事。
到着した頃には、冬の空はすっかり暗くなっていた。シャッターの下りた工場の灯りが漏れる窓のあるドアを開けて中へ入ると、エンジンルームに上半身を突っ込んだ都地さんがいた。わたしの顔をチラリと見て、もう終わりですから上で話しましょう、と工具をまとめ始めたのを止めて、今の様子を写真に撮りたいのでどうかそのままでとお願いした。明るい時間帯には車検場に出掛けているか、机で調べ物をしていることが多い都地さん。真っ黒に手を汚してクルマにかじりついている光景は、もう長い付き合いになるわたしにとっても珍しかった。
一等賞以外はみんなビリ、というのは、都地さんの口癖である。都地さんは若い頃、バイクのレースにハマっていた。クルマにしてもオートバイにしても、結果に対する残酷なまでの非情さは、コースの上で真っ赤になってアドレナリンを噴出させた経験のある誰もが嫌というほど思い知らされる現実である。
「自分のことを他人が評価する。正確には他人ではなくて、状況なのかな。つまり、現実はこうですよ、ということがはっきりしちゃうのがレースなんですよね。そこには、頑張ったねとか、素晴らしい個性ですねとか、そういう表現はなにもないんです。決められたルールの中で競り合って、誰がいちばん速いか決めましょう、という場の一人に加わった瞬間、ルールに従って結果が出るだけ。2等賞の表彰台に立てても、横には1等賞の人がいる。3等賞を見てやった! と思うより、1等賞を見て負けたと感じる性分なんです。だから1等賞以外はみんなビリ、自分にとってはね」
そんな都地さんの仕事は、ざっくり言うと車検屋さんである。ただし、都地さんを頼って日本中から持ち込まれるクルマの多くは、いわゆる町中を普通に走っているクルマたちではない。レース専用車として製作されたクルマ、分厚い装甲を纏った特殊用途専用車、遙か昔にメーカーが消滅してしまった見たことも聞いたこともないようなクラシックカー……。そういうクルマにナンバープレートを付けて、つまり日本の法規に適合した登録車両として公道を走れるようにしてほしいという望みを叶える車検屋さんなのである。
「難しい仕事なんですが、少し見方を変えると難しくはないとも言えます。つまり、登録を適えるためのルールは法律ですから、明文化されたものとして決まっているわけで、自分がやることは、そのルールの中に収まるクルマですよということの証明作業なんです。もちろんその作業の過程には、灯火類や制動装置の仕様や性能、排気の状態を見直すような作業がつきものになりますが、何をしていいのか分からないということはひとつもないわけです。すべてルールで決まっていることですから、それを目標に仕上げればいいわけで。そういう意味では、レースのようにライバルが毎戦ごとにどんどん速くなって、いつまで経っても追いつけないなんていう難しさはありません」
けれども、任された車両によっては、そのルールが示すしきい値までの距離が遙か彼方に感じられることもあるはずだ。例えば、F1マシンで青山通りを走りたいというような夢。
「不可能じゃないですよ。製造者がはっきりしている分だけ楽かもしれません」
はははと笑った後、ポツリと。
「だから、1等賞以外はみんなビリなんです。あとちょっとでナンバー付けられたのにね、という評価は、自分の仕事にはないんです」
その日は、かなり遅くまで話し込んだ。辛くなることはないか、というような訊ね方をしたと思う。やることは同じだと笑うその仕事は、前例のない、つまり誰かに尋ねて答えを見つけられる可能性がとても低く、そういう事ごとにひとり黙々と取り組む日々に孤独を感じることはないかということが訊きたかった。
「レースと同じだと思っています。結果がすべてと話しましたが、それは言い換えれば誰かの評価を勝ち取るということと同意だと思うんです。この仕事を評価してくれる人がいるとしたら、もちろん自分を信じて依頼してくれたお客さんですよね。国もそうです。法律に適合していることが認められて初めて車検証は発行されます。そして、そうですね……」
そして?
「家族です。妻や娘たちが、お父さん凄いねって言ってくれること。評価という言葉が相応しいかどうかはわかりませんが、毎日、何十年もこの工場で世界中からやって来た見たこともないようなクルマやバイクを前に奮闘している姿を、いちばん間近に見ているわけですからね。自分にとって家族以上の評価者はいないんじゃないかって、そう思います。明日も、明後日も、困ったなぁどうしよう……というクルマが待ってる工場へ戻って、何とかしよう何とかなるさと仕事に打ち込める最大のモチベーションは、実はすごく身近にあるもんだと思います。自分の気持ちもそうだということも含めてね」
帰り間際、工場前にあった巨大な装甲車に乗って、都地さんと一緒に記念写真を撮った。ニカッといつもの笑顔で写真に収まってくれた都地さんがひと言。
“この装甲車は、すぐにナンバー付きますよ”
嘘みたいなことをサラッと言った都地さんのことがなんだかおかしくて、写真の中のわたしも思いっきりの笑顔で隣に収まっていた。
※2021年1月取材

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
※ぜひ、Facebookでわたしをフォローしてください。ブログよりも更新が楽なので、スピーカーシステムの話、クルマの話、はるかにたくさんの発信をしています。簡単な動画ですが、スピーカーシステムの音を車内で録音したファイルも、Facebook内にはたくさんあります。鑑賞だけならアカウントは不要です。下のFacebookのURLから飛べます。
facebook / Yamaguchi Munehisa
Twitter / nineover
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【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
四人目は……
都地龍哉さん
とぢ商店
一等賞以外はみんなビリ。
自動車の登録はそういう仕事。
到着した頃には、冬の空はすっかり暗くなっていた。シャッターの下りた工場の灯りが漏れる窓のあるドアを開けて中へ入ると、エンジンルームに上半身を突っ込んだ都地さんがいた。わたしの顔をチラリと見て、もう終わりですから上で話しましょう、と工具をまとめ始めたのを止めて、今の様子を写真に撮りたいのでどうかそのままでとお願いした。明るい時間帯には車検場に出掛けているか、机で調べ物をしていることが多い都地さん。真っ黒に手を汚してクルマにかじりついている光景は、もう長い付き合いになるわたしにとっても珍しかった。
一等賞以外はみんなビリ、というのは、都地さんの口癖である。都地さんは若い頃、バイクのレースにハマっていた。クルマにしてもオートバイにしても、結果に対する残酷なまでの非情さは、コースの上で真っ赤になってアドレナリンを噴出させた経験のある誰もが嫌というほど思い知らされる現実である。
「自分のことを他人が評価する。正確には他人ではなくて、状況なのかな。つまり、現実はこうですよ、ということがはっきりしちゃうのがレースなんですよね。そこには、頑張ったねとか、素晴らしい個性ですねとか、そういう表現はなにもないんです。決められたルールの中で競り合って、誰がいちばん速いか決めましょう、という場の一人に加わった瞬間、ルールに従って結果が出るだけ。2等賞の表彰台に立てても、横には1等賞の人がいる。3等賞を見てやった! と思うより、1等賞を見て負けたと感じる性分なんです。だから1等賞以外はみんなビリ、自分にとってはね」
そんな都地さんの仕事は、ざっくり言うと車検屋さんである。ただし、都地さんを頼って日本中から持ち込まれるクルマの多くは、いわゆる町中を普通に走っているクルマたちではない。レース専用車として製作されたクルマ、分厚い装甲を纏った特殊用途専用車、遙か昔にメーカーが消滅してしまった見たことも聞いたこともないようなクラシックカー……。そういうクルマにナンバープレートを付けて、つまり日本の法規に適合した登録車両として公道を走れるようにしてほしいという望みを叶える車検屋さんなのである。
「難しい仕事なんですが、少し見方を変えると難しくはないとも言えます。つまり、登録を適えるためのルールは法律ですから、明文化されたものとして決まっているわけで、自分がやることは、そのルールの中に収まるクルマですよということの証明作業なんです。もちろんその作業の過程には、灯火類や制動装置の仕様や性能、排気の状態を見直すような作業がつきものになりますが、何をしていいのか分からないということはひとつもないわけです。すべてルールで決まっていることですから、それを目標に仕上げればいいわけで。そういう意味では、レースのようにライバルが毎戦ごとにどんどん速くなって、いつまで経っても追いつけないなんていう難しさはありません」
けれども、任された車両によっては、そのルールが示すしきい値までの距離が遙か彼方に感じられることもあるはずだ。例えば、F1マシンで青山通りを走りたいというような夢。
「不可能じゃないですよ。製造者がはっきりしている分だけ楽かもしれません」
はははと笑った後、ポツリと。
「だから、1等賞以外はみんなビリなんです。あとちょっとでナンバー付けられたのにね、という評価は、自分の仕事にはないんです」
その日は、かなり遅くまで話し込んだ。辛くなることはないか、というような訊ね方をしたと思う。やることは同じだと笑うその仕事は、前例のない、つまり誰かに尋ねて答えを見つけられる可能性がとても低く、そういう事ごとにひとり黙々と取り組む日々に孤独を感じることはないかということが訊きたかった。
「レースと同じだと思っています。結果がすべてと話しましたが、それは言い換えれば誰かの評価を勝ち取るということと同意だと思うんです。この仕事を評価してくれる人がいるとしたら、もちろん自分を信じて依頼してくれたお客さんですよね。国もそうです。法律に適合していることが認められて初めて車検証は発行されます。そして、そうですね……」
そして?
「家族です。妻や娘たちが、お父さん凄いねって言ってくれること。評価という言葉が相応しいかどうかはわかりませんが、毎日、何十年もこの工場で世界中からやって来た見たこともないようなクルマやバイクを前に奮闘している姿を、いちばん間近に見ているわけですからね。自分にとって家族以上の評価者はいないんじゃないかって、そう思います。明日も、明後日も、困ったなぁどうしよう……というクルマが待ってる工場へ戻って、何とかしよう何とかなるさと仕事に打ち込める最大のモチベーションは、実はすごく身近にあるもんだと思います。自分の気持ちもそうだということも含めてね」
帰り間際、工場前にあった巨大な装甲車に乗って、都地さんと一緒に記念写真を撮った。ニカッといつもの笑顔で写真に収まってくれた都地さんがひと言。
“この装甲車は、すぐにナンバー付きますよ”
嘘みたいなことをサラッと言った都地さんのことがなんだかおかしくて、写真の中のわたしも思いっきりの笑顔で隣に収まっていた。
※2021年1月取材

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
- ★7月15日(火)~26日(土) キヤノンギャラリー銀座
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
※ぜひ、Facebookでわたしをフォローしてください。ブログよりも更新が楽なので、スピーカーシステムの話、クルマの話、はるかにたくさんの発信をしています。簡単な動画ですが、スピーカーシステムの音を車内で録音したファイルも、Facebook内にはたくさんあります。鑑賞だけならアカウントは不要です。下のFacebookのURLから飛べます。
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崎山和雄さん・上出優之利 写真個展「クルマの達人」
2025/07/18 09:14 Filed in: “書き”のお仕事
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【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
三人目は……
崎山和雄さん
崎山自動車サーヴィス
俺は永遠の自動車少年。
これまでも、これからも。
『人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。』
路地を挟んだ向かいには、小さな八百屋さん、錠前屋さん、ガラス屋さんなんかが商売をしている。籠の上に載っかった真っ赤なトマトを指さしながら、腰の曲がったおばあちゃんと夕飯の材料を求めにきたお客とのやりとりが微笑ましい。隣の錠前屋では軽トラから小さな段ボール箱を忙しく店の中へ、ガラス屋の老主人は店の奥の作業台でサッシに刃物を当ててなにやら作業中だ。
ちょっと騒々しい変わったクルマがやってくると、近所の窓から半ばいぶかしげにも見える興味深そうな顔が覗く。崎山自動車サーヴィスは、古くからの人が住む東京の街角の小さな自動車修理工場だ。
20年前、初めて崎山さんさんのことを紹介した「クルマの達人」を、わたしはこのように書き始めた。崎山自動車サーヴィスは、名うてのメカニックが工具を振るう整備工場として当時つとに名高く、愛車の仕上がり具合を覗きに立ち寄る有名人の姿も頻繁にあった。けれども、そのようなことを鼻に掛ける気取りはまるでなく、いわゆる町の整備工場そのものだった。
クルマの腹下から寝板を滑らせて現れた崎山さんに散歩する近所の人が「いい天気ね」と声を掛けるのと同じ調子で、整備が終わったアストンマーチンを引き取りに来たテレビでよく顔を見かけるような人に「クラッチをもっとうまくやらなきゃ、また壊れちゃいますからね。ミートはこういう感じで……」と手振りを添えてニコニコと話す。その名調子をうなずきながら聞くクルマの持ち主の表情の、なんと楽しそうなことか。
いつも話してくれる「町の修理屋の代表みたいになりたかったの。それを東京でやりたかったわけ」という台詞ままの崎山自動車サーヴィス、今年いっぱいで幕を下ろす。ちょうど60年間東京で、すなわち戦後輸入車の移ろいのすべてを整備の現場で見続け、支えてきた「クルマの達人」が間もなく仕事の為の工具を置く。
「品川の大井町っていうところで生まれたんだけど、伊達のお屋敷が進駐軍に接収されてたせいで外車だらけの町だった。格好いいなって憧れたよ。で、中学の時は自動車雑誌を古本屋で手に入れて隅から隅まで読むようになって。16歳から赤坂にあったジャックス・ガラージっていう整備工場で働き始めて、気がついたら77歳になってた。
大人ってのはさ、よく見てると思う。職業訓練校に入れって勧めた叔父さんは、おまえはクルマが好きでそれ以外はできないっていう理由で話をしてくれたし、訓練校の先生に呼び出されたかと思ったら、おまえは将来好きなこと以外やるな、そういうタイプの人間だって諭された。
それに輪を掛けるような言葉でいろいろ教えてくれたのは親父(ジャック・Y・タナカ=ジャックス・ガラージの社長メカニック。崎山さんと血縁関係はない)だと思う。まだ働き始めたばかりの俺にプラグ交換をしろって。いや、そんなのできませんよって答えたら、好きなんだからできないわけない。やってみろ、って。1ドル1200円くらいで輸入部品の値段を計算していた時代だからね、プラグでも給料を軽く超える高級品で、しかも簡単に折れちゃうほどやわい。無茶なことを言う人だって感じたけど、俺のことを本当によく見抜いてくれたんだなって思う。21歳の時、おまえは将来自分で工場をやるに違いないので、自分が整備できるようになるだけじゃなく、人の使い方を覚えろ、とかね。
若かった頃に親父が掛けてくれたそういう言葉は自分の力になっている。何かあったときに慰めてくれる人より、力になる言葉を掛けてくれる人が好きなの。俺が24歳の時に若くして亡くなっちゃったけどね」
一間間口の商店が並んでいた場所にはマンションが建ち、通りを行き来した昔からの顔もすっかり減った。今や崎山自動車だけがこの界隈に流れる昔ながらの空気を残している場所になってしまった。
「体力のこともあるけど、もういいかなって。一つのことに60年だからね。もう十分でしょ。
若い頃に“東京には整備工場が掃いて捨てるほどある。でもおまえに金を払いたいから来てるんだ。なんたって、おまえみたいなのは放っておけない。”って、お客さんによく言われたよ。男芸者だからさ、俺がやるメカニックって仕事は。工場はステージで、そこで舞うわけだよ。こりゃあ凄いって、喜んでもらってなんぼだから。あっという間だったね、60年。
夢幻のごとく……。織田信長が好きだった『敦盛』の一節、いいでしょ。あまりに一瞬のことで、自動車少年のままだから。永遠の自動車少年のままだから」
※2020年10月取材

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
※ぜひ、Facebookでわたしをフォローしてください。ブログよりも更新が楽なので、スピーカーシステムの話、クルマの話、はるかにたくさんの発信をしています。簡単な動画ですが、スピーカーシステムの音を車内で録音したファイルも、Facebook内にはたくさんあります。鑑賞だけならアカウントは不要です。下のFacebookのURLから飛べます。
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東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
三人目は……
崎山和雄さん
崎山自動車サーヴィス
俺は永遠の自動車少年。
これまでも、これからも。
『人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。』
路地を挟んだ向かいには、小さな八百屋さん、錠前屋さん、ガラス屋さんなんかが商売をしている。籠の上に載っかった真っ赤なトマトを指さしながら、腰の曲がったおばあちゃんと夕飯の材料を求めにきたお客とのやりとりが微笑ましい。隣の錠前屋では軽トラから小さな段ボール箱を忙しく店の中へ、ガラス屋の老主人は店の奥の作業台でサッシに刃物を当ててなにやら作業中だ。
ちょっと騒々しい変わったクルマがやってくると、近所の窓から半ばいぶかしげにも見える興味深そうな顔が覗く。崎山自動車サーヴィスは、古くからの人が住む東京の街角の小さな自動車修理工場だ。
20年前、初めて崎山さんさんのことを紹介した「クルマの達人」を、わたしはこのように書き始めた。崎山自動車サーヴィスは、名うてのメカニックが工具を振るう整備工場として当時つとに名高く、愛車の仕上がり具合を覗きに立ち寄る有名人の姿も頻繁にあった。けれども、そのようなことを鼻に掛ける気取りはまるでなく、いわゆる町の整備工場そのものだった。
クルマの腹下から寝板を滑らせて現れた崎山さんに散歩する近所の人が「いい天気ね」と声を掛けるのと同じ調子で、整備が終わったアストンマーチンを引き取りに来たテレビでよく顔を見かけるような人に「クラッチをもっとうまくやらなきゃ、また壊れちゃいますからね。ミートはこういう感じで……」と手振りを添えてニコニコと話す。その名調子をうなずきながら聞くクルマの持ち主の表情の、なんと楽しそうなことか。
いつも話してくれる「町の修理屋の代表みたいになりたかったの。それを東京でやりたかったわけ」という台詞ままの崎山自動車サーヴィス、今年いっぱいで幕を下ろす。ちょうど60年間東京で、すなわち戦後輸入車の移ろいのすべてを整備の現場で見続け、支えてきた「クルマの達人」が間もなく仕事の為の工具を置く。
「品川の大井町っていうところで生まれたんだけど、伊達のお屋敷が進駐軍に接収されてたせいで外車だらけの町だった。格好いいなって憧れたよ。で、中学の時は自動車雑誌を古本屋で手に入れて隅から隅まで読むようになって。16歳から赤坂にあったジャックス・ガラージっていう整備工場で働き始めて、気がついたら77歳になってた。
大人ってのはさ、よく見てると思う。職業訓練校に入れって勧めた叔父さんは、おまえはクルマが好きでそれ以外はできないっていう理由で話をしてくれたし、訓練校の先生に呼び出されたかと思ったら、おまえは将来好きなこと以外やるな、そういうタイプの人間だって諭された。
それに輪を掛けるような言葉でいろいろ教えてくれたのは親父(ジャック・Y・タナカ=ジャックス・ガラージの社長メカニック。崎山さんと血縁関係はない)だと思う。まだ働き始めたばかりの俺にプラグ交換をしろって。いや、そんなのできませんよって答えたら、好きなんだからできないわけない。やってみろ、って。1ドル1200円くらいで輸入部品の値段を計算していた時代だからね、プラグでも給料を軽く超える高級品で、しかも簡単に折れちゃうほどやわい。無茶なことを言う人だって感じたけど、俺のことを本当によく見抜いてくれたんだなって思う。21歳の時、おまえは将来自分で工場をやるに違いないので、自分が整備できるようになるだけじゃなく、人の使い方を覚えろ、とかね。
若かった頃に親父が掛けてくれたそういう言葉は自分の力になっている。何かあったときに慰めてくれる人より、力になる言葉を掛けてくれる人が好きなの。俺が24歳の時に若くして亡くなっちゃったけどね」
一間間口の商店が並んでいた場所にはマンションが建ち、通りを行き来した昔からの顔もすっかり減った。今や崎山自動車だけがこの界隈に流れる昔ながらの空気を残している場所になってしまった。
「体力のこともあるけど、もういいかなって。一つのことに60年だからね。もう十分でしょ。
若い頃に“東京には整備工場が掃いて捨てるほどある。でもおまえに金を払いたいから来てるんだ。なんたって、おまえみたいなのは放っておけない。”って、お客さんによく言われたよ。男芸者だからさ、俺がやるメカニックって仕事は。工場はステージで、そこで舞うわけだよ。こりゃあ凄いって、喜んでもらってなんぼだから。あっという間だったね、60年。
夢幻のごとく……。織田信長が好きだった『敦盛』の一節、いいでしょ。あまりに一瞬のことで、自動車少年のままだから。永遠の自動車少年のままだから」
※2020年10月取材

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
- ★7月15日(火)~26日(土) キヤノンギャラリー銀座
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
※ぜひ、Facebookでわたしをフォローしてください。ブログよりも更新が楽なので、スピーカーシステムの話、クルマの話、はるかにたくさんの発信をしています。簡単な動画ですが、スピーカーシステムの音を車内で録音したファイルも、Facebook内にはたくさんあります。鑑賞だけならアカウントは不要です。下のFacebookのURLから飛べます。
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三村英之さん・上出優之利 写真個展「クルマの達人」
2025/07/18 08:40 Filed in: “書き”のお仕事
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東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
ふたり目は……
三村英之さん
GRAND ARTS
一本の筆と日本人としての感性が
世界を舞台に描き始める日を夢見て
昨年の11月、SEMA SHOWの会場を歩いてきた。
SEMA SHOWというのは、自動車の主にアフターマーケットに関するあらゆるビジネスを対象とした事業者向けの見本市で、アメリカはラスベガスの広大な会場で毎年開催されている。
世界のトレンドを占うカスタムカーに群がる人々の熱気はもちろんとんでもなく熱いのだけど、日本で開催される同じようなイベントではあまり感じられないある雰囲気が、やはり今回も熱かった。
その熱い雰囲気を全身に浴びてるうちに、そうだ、日本に帰ったら三村さんに会いに行こうと、思った。
1ヶ月後、奥の方から工具が動く音が聞こえてくる工房の入り口に立っていた。中に入ってゆくことはせずに外で待っていたら、しばらくして三村さんが表へ出てきた。たった2年しか経っていないのに、前に会ったときよりずっと創作家の風情が強くなったように感じた。なぜだろう。
「自分のやるべきことが、とても整理されてきたような気がします。自分にしかできないことがあって、でもそれを前面に押し出すだけでは理解してもらえないということもわかっていて、じゃあどうすればいいのかという答えが、すごく見えてきたような気がするんです」
少し興奮気味にそう切り出した言葉の続き、実は創ってゆきたい作品の内容については、2年前に話してくれた夢やアイデアと何も変わっていなかった。けれども、やらないことについては、思いっきり明確になっていた。
「仕事ですから、それでお金を稼いで生きてゆかなければならないじゃないですか。そうすると、どうしても得意なんだからやってよと頼まれた仕事を断れない自分がいたんです。もちろん今でも、完全に切り分けられたわけではないです。そこまで、自分が理想だと考えるバランスには到達できていないです。けれども、もっともっと自分らしさが濃い自分になるために、いろいろと整理がついてきたようには感じるんです」
黒く塗られた壁とファンスに囲まれた秘密基地のような空間には、あらゆる技法で描かれた絵や立体物の作品が並んでいる。例えばスプレーガンで描かれた画も、素晴らしい出来栄えでそこに並んでいる。
「あぁ、エアブラシアートの画ですね。もちろん、仕事としてのクオリティは十分以上にクリアしていると思います。でもあれって、エアブラシアートを勉強した人なら誰でも描けるんですよ、技法的には。だから、用意された写真を元にそれをブラシアートで描く、という作業は、自分じゃなくてもできるわけです。そういうものを自分の作品の中から排除してゆこうという流れが、かなり進んだ気がします」
近しい間柄の中で、そのうち活躍の舞台を海外に移してしまうだろうな、と直感する人が2人いる。三村さんは、そのうちの一人だ。
SEMA SHOWで今年も感じた雰囲気の中に、三村さんを置いてみたいと話した。ある作品に感銘を受けたとき、こういう創造ができる人物は誰だろう、そういう人物が籍を置いて力を発揮してもらえるこの企業はラッキーだ、という風に発想する雰囲気がSEMA SHOWの会場には満ちている。だから、組織よりも、個人へのリスペクトが当然のように先に立つアメリカのあの会場で、思い存分 "我こそは!”と叫びながら、作品を紹介する三村さんが見てみたいのだと話してみた。
「前にも話したと思うんですけど、僕の仕事はあくまで代行屋です。それは、夢を叶えるということをピンストライプや立体の造形で実現することはできるんですが、そもそもそれがどういう夢なのかは、お客さんの心のなかにあるものだからです。言葉にしにくいその夢を聞き出して、そのイメージに自分なりの工夫を加えて、そして出来上がりを見た瞬間に満面の笑顔がこぼれるるために必要なことすべてが、僕の仕事だというスタンスは変わっていません。
日本でも、僕のそういうスタイルを理解してくれて、楽しんでくれたり応援してくれたりする人には、とても恵まれていると感じています。でも、もしそういう感激の輪が海を超えることができれば最高ですね! 実は、以前からすごく興味があるんです、SEMA SHOW。来年、ぜひ一緒に行きましょう」
そうですね、三村さん。来年は、とりあえず様子を見に行きましょう。そして再来年はウォッチャーではなく、パフォーマーとしてラスベガスの会場に立ってください。
じゃあ、行きますか! と言ったら、まず英語を勉強しなくちゃですね、と笑っていた。大丈夫、自らの魂の表現を両手で掲げたときのその熱い眼差しがあれば、きっと世界中どこでも日本語で通用します。
※2021年12月取材

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
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東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
ふたり目は……
三村英之さん
GRAND ARTS
一本の筆と日本人としての感性が
世界を舞台に描き始める日を夢見て
昨年の11月、SEMA SHOWの会場を歩いてきた。
SEMA SHOWというのは、自動車の主にアフターマーケットに関するあらゆるビジネスを対象とした事業者向けの見本市で、アメリカはラスベガスの広大な会場で毎年開催されている。
世界のトレンドを占うカスタムカーに群がる人々の熱気はもちろんとんでもなく熱いのだけど、日本で開催される同じようなイベントではあまり感じられないある雰囲気が、やはり今回も熱かった。
その熱い雰囲気を全身に浴びてるうちに、そうだ、日本に帰ったら三村さんに会いに行こうと、思った。
1ヶ月後、奥の方から工具が動く音が聞こえてくる工房の入り口に立っていた。中に入ってゆくことはせずに外で待っていたら、しばらくして三村さんが表へ出てきた。たった2年しか経っていないのに、前に会ったときよりずっと創作家の風情が強くなったように感じた。なぜだろう。
「自分のやるべきことが、とても整理されてきたような気がします。自分にしかできないことがあって、でもそれを前面に押し出すだけでは理解してもらえないということもわかっていて、じゃあどうすればいいのかという答えが、すごく見えてきたような気がするんです」
少し興奮気味にそう切り出した言葉の続き、実は創ってゆきたい作品の内容については、2年前に話してくれた夢やアイデアと何も変わっていなかった。けれども、やらないことについては、思いっきり明確になっていた。
「仕事ですから、それでお金を稼いで生きてゆかなければならないじゃないですか。そうすると、どうしても得意なんだからやってよと頼まれた仕事を断れない自分がいたんです。もちろん今でも、完全に切り分けられたわけではないです。そこまで、自分が理想だと考えるバランスには到達できていないです。けれども、もっともっと自分らしさが濃い自分になるために、いろいろと整理がついてきたようには感じるんです」
黒く塗られた壁とファンスに囲まれた秘密基地のような空間には、あらゆる技法で描かれた絵や立体物の作品が並んでいる。例えばスプレーガンで描かれた画も、素晴らしい出来栄えでそこに並んでいる。
「あぁ、エアブラシアートの画ですね。もちろん、仕事としてのクオリティは十分以上にクリアしていると思います。でもあれって、エアブラシアートを勉強した人なら誰でも描けるんですよ、技法的には。だから、用意された写真を元にそれをブラシアートで描く、という作業は、自分じゃなくてもできるわけです。そういうものを自分の作品の中から排除してゆこうという流れが、かなり進んだ気がします」
近しい間柄の中で、そのうち活躍の舞台を海外に移してしまうだろうな、と直感する人が2人いる。三村さんは、そのうちの一人だ。
SEMA SHOWで今年も感じた雰囲気の中に、三村さんを置いてみたいと話した。ある作品に感銘を受けたとき、こういう創造ができる人物は誰だろう、そういう人物が籍を置いて力を発揮してもらえるこの企業はラッキーだ、という風に発想する雰囲気がSEMA SHOWの会場には満ちている。だから、組織よりも、個人へのリスペクトが当然のように先に立つアメリカのあの会場で、思い存分 "我こそは!”と叫びながら、作品を紹介する三村さんが見てみたいのだと話してみた。
「前にも話したと思うんですけど、僕の仕事はあくまで代行屋です。それは、夢を叶えるということをピンストライプや立体の造形で実現することはできるんですが、そもそもそれがどういう夢なのかは、お客さんの心のなかにあるものだからです。言葉にしにくいその夢を聞き出して、そのイメージに自分なりの工夫を加えて、そして出来上がりを見た瞬間に満面の笑顔がこぼれるるために必要なことすべてが、僕の仕事だというスタンスは変わっていません。
日本でも、僕のそういうスタイルを理解してくれて、楽しんでくれたり応援してくれたりする人には、とても恵まれていると感じています。でも、もしそういう感激の輪が海を超えることができれば最高ですね! 実は、以前からすごく興味があるんです、SEMA SHOW。来年、ぜひ一緒に行きましょう」
そうですね、三村さん。来年は、とりあえず様子を見に行きましょう。そして再来年はウォッチャーではなく、パフォーマーとしてラスベガスの会場に立ってください。
じゃあ、行きますか! と言ったら、まず英語を勉強しなくちゃですね、と笑っていた。大丈夫、自らの魂の表現を両手で掲げたときのその熱い眼差しがあれば、きっと世界中どこでも日本語で通用します。
※2021年12月取材

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
- ★7月15日(火)~26日(土) キヤノンギャラリー銀座
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
※ぜひ、Facebookでわたしをフォローしてください。ブログよりも更新が楽なので、スピーカーシステムの話、クルマの話、はるかにたくさんの発信をしています。簡単な動画ですが、スピーカーシステムの音を車内で録音したファイルも、Facebook内にはたくさんあります。鑑賞だけならアカウントは不要です。下のFacebookのURLから飛べます。
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後藤新太郎さん・上出優之利 写真個展「クルマの達人」
2025/07/18 06:52 Filed in: “書き”のお仕事
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【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
まずは……
後藤新太郎さん
GARAGE GOTO
本当に生きているんじゃないかと
アルファロメオとは、そういうクルマ
ちょうどピストンを加工しているところだった。手製の治具に旧いアルファロメオのピストンを慎重に取り付け、工作機械の刃物を下ろす位置を何度も確かめてから機械のスイッチを押すと、デジタルの表示パネルに赤いゼロが並んだ。そこまで10分ほど。その後、ようやく回した刃物がキリキリという音を立てながらピストンのてっぺんを少しずつ削り始めた。削り落としの深度を示す赤い数字と、刃先とピストンが触れている一点を交互に見比べながらまた10分ほど。機械を止めてピストンを取り出す。手のひらに乗せて光にかざし納得した表情を見せると、それを大切にトレイの上に戻し、次のピストンを手に機械のところへ戻る。
真剣なまなざしと柔和さが混ざった、得も言われぬ終始の表情を見たとき、嗚呼後藤さんの工場を訪ねているのだなあと、こちらまで気持ちが和んだ。
アルファロメオの整備でつとに有名な後藤さんは、町乗りからサーキット走行まで、愛好家の望む施しを彼らの愛車に注ぎ込むメカニックであることはもちろん、工作機械の前に立ち、彼一流の手仕事を施すチューナーでもある。そして、本当に好きなんだなぁと感じるこの表情こそが、多くのファンの心を掴む魅力の真骨頂なのだと確信させる。
「最初は、どうしてもアルファロメオでなければならないというわけではなかったんですよ。クルマに興味を持ち始めた頃は、解体寸前の国産車を安く買ってきて、自分で直して乗ってました。何台もね。きっと直すのが好きだったんだと思います。機械いじりという意味でね。そんな中で、たまたまアルファロメオを所有することになったんです。まだサラリーマンとして働いていた三十代の頃の話です」
初めて手に入れたアルファロメオも例に漏れず、そのまま安心して乗り出せるような状態ではなかった。後藤さんは、それまでの愛車にしたように修理をして整備をして、いくつかのポイントを自分好みに改良して運転を楽しんだ。そのとき、ある感触が後藤さんの感性を射貫いた。
「特に速いクルマではありませんでした。性能を追求したスポーツカーという趣では、ほかにもっと驚くようなクルマがあるだろうというクルマでした。
けれども、なんて心に響くクルマなんだろうと強く感じたんです。なんて楽しいクルマだろうという感覚が、運転操作のすべてから返ってきて、五感が震えるというか、ワクワクする気持ちが止まらない。それなのに、まったく神経質なところがなく、もっと言うとやさしい気配に包まれたままクルマを走らせることができる。少しずつ運転に慣れてくると、もっと上があるよと穏やかに次のステップを教えてくれる。そこへ到達すると、ほら次はここだよとまた教えてくれる。
目からうろこが落ちるような思いでした。こいつは実は生きていて、自分のことを見ているんじゃないかと本気で感じることがあるほど、人間っぽいクルマにやられちゃったんです。アルファロメオに完全にやられちゃったんですよ、僕」
38歳のとき、勤めていた会社を辞め、ガレージゴトウを興した。不要になったプレハブ小屋の材料一式を譲り受け、すでに後藤さんの整備を受けていたクルマ仲間と一緒に建て、四六時中そこでクルマと触れ合う日々が始まった。さっきまでピストンの加工をしていた工作機械がぎっしり並んだ小さな建物が、33年前、後藤さんが第2の人生をスタートさせた空間である。
「あっという間でしたね。もう72歳になりました」
昔よりもずいぶん細身になったことは、少しサイズが大きく見える着慣れたツナギ姿が気づかせてくれた。
「メカニックというのは、体力が必要な仕事ですから。いつまで現場に立てるでしょうかね。部品の加工作業は、まだまだ大丈夫だと思うんですけど」
後藤さんのファンにとっては少しギョッとするようなことを口にした後、息子が少しずつ整備の腕を上げているんだという話をうれしそうにしてくれた。
「いや、大丈夫。まだ引退しないから大丈夫。試してみたいことがまだまだあるんです。もうずいぶんいじくったはずなのに、こういうチューニングをしたらどんな結果が出るんだろうっていう興味が尽きないんです。だから、まだ大丈夫ですよ」
そう言って大きな手で頭を掻きながら魅せる人懐こい笑顔に今日も出逢えた。
工場を後にした帰り道、後藤さんをクルマに例えるなら……などということをふと考え、思わず頬が緩んだ。繊細で技術的な造詣の深さがあって、けれども神経質過ぎることがなく、そして近づいても近づいても次のステージを用意できる奥深さを持っているクルマ。さっき、それはアルファロメオというクルマです、と後藤さん本人が言ったばかりじゃないか!
※2021年6月取材
撮影時の様子を記録した短い動画をFacebookにアップしておきます。
【コチラ】からぜひご覧ください。

【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
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【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
東京・銀座で絶賛開催中ですが、《明日(7月19日・土)の午後3時から》、写真家の上出優之利さんが皆さんの前で、展示中の作品を一点ずつ振り返りながら、氏にとっての撮ることについて説いてくれる約1時間のトークショーを開催します。
この席に「クルマの達人」で紹介したクルマの達人も駆けつけてくださり、上出さんといっしょにご自身の仕事についてお話をしてくださいます。詳細はブログの後半にありますので、ぜひ皆さんもいらしてください。
わたしの方でご来場予定を把握している方々、どのような「クルマの達人」なのか、ご来場いただける皆さんにお知らせしておきたく、誌面に掲載した原稿をここで紹介します。
まずは……
後藤新太郎さん
GARAGE GOTO
本当に生きているんじゃないかと
アルファロメオとは、そういうクルマ
ちょうどピストンを加工しているところだった。手製の治具に旧いアルファロメオのピストンを慎重に取り付け、工作機械の刃物を下ろす位置を何度も確かめてから機械のスイッチを押すと、デジタルの表示パネルに赤いゼロが並んだ。そこまで10分ほど。その後、ようやく回した刃物がキリキリという音を立てながらピストンのてっぺんを少しずつ削り始めた。削り落としの深度を示す赤い数字と、刃先とピストンが触れている一点を交互に見比べながらまた10分ほど。機械を止めてピストンを取り出す。手のひらに乗せて光にかざし納得した表情を見せると、それを大切にトレイの上に戻し、次のピストンを手に機械のところへ戻る。
真剣なまなざしと柔和さが混ざった、得も言われぬ終始の表情を見たとき、嗚呼後藤さんの工場を訪ねているのだなあと、こちらまで気持ちが和んだ。
アルファロメオの整備でつとに有名な後藤さんは、町乗りからサーキット走行まで、愛好家の望む施しを彼らの愛車に注ぎ込むメカニックであることはもちろん、工作機械の前に立ち、彼一流の手仕事を施すチューナーでもある。そして、本当に好きなんだなぁと感じるこの表情こそが、多くのファンの心を掴む魅力の真骨頂なのだと確信させる。
「最初は、どうしてもアルファロメオでなければならないというわけではなかったんですよ。クルマに興味を持ち始めた頃は、解体寸前の国産車を安く買ってきて、自分で直して乗ってました。何台もね。きっと直すのが好きだったんだと思います。機械いじりという意味でね。そんな中で、たまたまアルファロメオを所有することになったんです。まだサラリーマンとして働いていた三十代の頃の話です」
初めて手に入れたアルファロメオも例に漏れず、そのまま安心して乗り出せるような状態ではなかった。後藤さんは、それまでの愛車にしたように修理をして整備をして、いくつかのポイントを自分好みに改良して運転を楽しんだ。そのとき、ある感触が後藤さんの感性を射貫いた。
「特に速いクルマではありませんでした。性能を追求したスポーツカーという趣では、ほかにもっと驚くようなクルマがあるだろうというクルマでした。
けれども、なんて心に響くクルマなんだろうと強く感じたんです。なんて楽しいクルマだろうという感覚が、運転操作のすべてから返ってきて、五感が震えるというか、ワクワクする気持ちが止まらない。それなのに、まったく神経質なところがなく、もっと言うとやさしい気配に包まれたままクルマを走らせることができる。少しずつ運転に慣れてくると、もっと上があるよと穏やかに次のステップを教えてくれる。そこへ到達すると、ほら次はここだよとまた教えてくれる。
目からうろこが落ちるような思いでした。こいつは実は生きていて、自分のことを見ているんじゃないかと本気で感じることがあるほど、人間っぽいクルマにやられちゃったんです。アルファロメオに完全にやられちゃったんですよ、僕」
38歳のとき、勤めていた会社を辞め、ガレージゴトウを興した。不要になったプレハブ小屋の材料一式を譲り受け、すでに後藤さんの整備を受けていたクルマ仲間と一緒に建て、四六時中そこでクルマと触れ合う日々が始まった。さっきまでピストンの加工をしていた工作機械がぎっしり並んだ小さな建物が、33年前、後藤さんが第2の人生をスタートさせた空間である。
「あっという間でしたね。もう72歳になりました」
昔よりもずいぶん細身になったことは、少しサイズが大きく見える着慣れたツナギ姿が気づかせてくれた。
「メカニックというのは、体力が必要な仕事ですから。いつまで現場に立てるでしょうかね。部品の加工作業は、まだまだ大丈夫だと思うんですけど」
後藤さんのファンにとっては少しギョッとするようなことを口にした後、息子が少しずつ整備の腕を上げているんだという話をうれしそうにしてくれた。
「いや、大丈夫。まだ引退しないから大丈夫。試してみたいことがまだまだあるんです。もうずいぶんいじくったはずなのに、こういうチューニングをしたらどんな結果が出るんだろうっていう興味が尽きないんです。だから、まだ大丈夫ですよ」
そう言って大きな手で頭を掻きながら魅せる人懐こい笑顔に今日も出逢えた。
工場を後にした帰り道、後藤さんをクルマに例えるなら……などということをふと考え、思わず頬が緩んだ。繊細で技術的な造詣の深さがあって、けれども神経質過ぎることがなく、そして近づいても近づいても次のステージを用意できる奥深さを持っているクルマ。さっき、それはアルファロメオというクルマです、と後藤さん本人が言ったばかりじゃないか!
※2021年6月取材
撮影時の様子を記録した短い動画をFacebookにアップしておきます。
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【上出優之利 写真個展「クルマの達人」】
- ★7月15日(火)~26日(土) キヤノンギャラリー銀座
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
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上出優之利 写真個展「クルマの達人」、開催
2025/07/15 07:38 Filed in: “書き”のお仕事
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上出優之利(かみで・まさのり)さんの、写真個展が本日から開催されます。テーマは、なんと「クルマの達人」です。
まずは開催概要から。
入場は無料ですが、休館日があるので以下のウェブサイトで詳細をご確認の上、お出かけください。
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
わたしが書くものをご愛読いただいている皆さんが写真展をより楽しんでいただけるように、上出優之利さんとわたしの関係について、少し書こうと思います。
上出さんとわたしが知り合ったのは、1990年代半ばだったと思います。
平成終焉のタイムリミットまで20年ほども残された、バブル経済の匂いがまだ日本を強く覆っていた頃、共通の知り合いだった女性が引き合わせてくれました。クラブDJとして活躍していた上出さんは、都内の多くのクラブでちょっとした顔で、彼がドアを開けて音楽轟くフロアに降りてゆくとパッと人が集まってくるという印象で、女にも男にもとてもモテていたことをよく覚えています。
当時原稿を書いていたREV SPEEDという雑誌で、クラブミュージックを支える音響機材とカーオーディオでのノウハウを絡めて紹介する記事の連載を作ったのは、上出さんと知り合ってクラブに出入りするようになったことがきっかけでした。上出さんにもクラブミュージックの指南役として登場していただくようにお願いして、キャラクターイラストを制作したりもしました。もう30年以上前の懐かしい話です。
それから25年ほど、まったく連絡を取り合わない時間が過ぎました。仲違いしたわけではなく、お互いに必要さを感じない時期だったのだと思います。自分のことをもっともっと研ぎ澄ますことに専心する時間でも、あったのだと思います。
Facebookで、四半世紀ぶりに「上出優之利」という名前を発見しました。彼は写真を撮る人になっていました。
「モノクロのブルース」という写真集が、そこで紹介されていました。何げなくそれを覗いたことが、上出さんとの新しい付き合いを始めるきっかけになりました。
新宿・夜の歌舞伎町界隈で撮られた、いわゆるストリートフォトというジャンルの写真たち。すべての写真に写しだされたあからさまな人々の生。笑い怒り愛し泣き走り倒れ……美しく汚く。血潮流れる温もりのある限り続く生の歓びと哀しさと、無機質な都会との鮮烈な輪郭。
衝動 “上出さんに「クルマの達人」の写真を撮ってほしい!”
「2020年1月23日18時・上出さん達人写真打ち合わせ」とカレンダーに記録がありました。新宿南口の騒がしい安居酒屋で、写真を撮っていただきたいとお願いして、快諾をいただき、後日そのときまでの7年間写真を撮っていただいていたカメラマンに “好きな人ができた……” というようなお仕事終了のお願いを了承していただき、2020年4月27日に上出さんが撮影した写真と共に作った「クルマの達人」を世の中に届けることができました。連載「クルマの達人」の3人目の撮影者がこのとき誕生しました。
写真は、その掲載のために3月27日に上出さんが撮った「山口宗久」の姿です。トークショーの日以外にも、会場にお邪魔しているかもしれません。この顔を見たら、ぜひ話しかけてください。

それからあっという間に、5年が経ちました。60回分の連載を一つのカタチにまとめてみたいという上出さんの想いが、今回の写真展を実現させました。ひとつの継続的に連続する自身の所作に、ファインダーを覗き続けてきた本人は何を見たのか。二歳先輩ではありますが、30年来の友人であり、仕事のパートナーである上出優之利さんの感性に、ぜひこの貴重な機会を通じて直接触れていただきたいと思います。
文中の「モノクロのブルース」は、以下のサイトでスライド-ショーがご覧になれます。ぜひ、ご自身が持てるいちばん大きな画面で、写真の全体が見渡せる少し離れた距離から感じてみてください。
【モノクロのブルース】
【上出優之利写真展「クルマの達人」】は、大阪でも開催されます。
9月2日(火)~13日(土) キヤノンギャラリー大阪
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上出優之利(かみで・まさのり)さんの、写真個展が本日から開催されます。テーマは、なんと「クルマの達人」です。
まずは開催概要から。
- ★7月15日(火)~26日(土) キヤノンギャラリー銀座
入場は無料ですが、休館日があるので以下のウェブサイトで詳細をご確認の上、お出かけください。
19日(土)15時からのトークショーでは、わたしもマイクを持たせていただきます。
【キヤノン公式ホームページ 上出優之利写真展「クルマの達人」】
わたしが書くものをご愛読いただいている皆さんが写真展をより楽しんでいただけるように、上出優之利さんとわたしの関係について、少し書こうと思います。
上出さんとわたしが知り合ったのは、1990年代半ばだったと思います。
平成終焉のタイムリミットまで20年ほども残された、バブル経済の匂いがまだ日本を強く覆っていた頃、共通の知り合いだった女性が引き合わせてくれました。クラブDJとして活躍していた上出さんは、都内の多くのクラブでちょっとした顔で、彼がドアを開けて音楽轟くフロアに降りてゆくとパッと人が集まってくるという印象で、女にも男にもとてもモテていたことをよく覚えています。
当時原稿を書いていたREV SPEEDという雑誌で、クラブミュージックを支える音響機材とカーオーディオでのノウハウを絡めて紹介する記事の連載を作ったのは、上出さんと知り合ってクラブに出入りするようになったことがきっかけでした。上出さんにもクラブミュージックの指南役として登場していただくようにお願いして、キャラクターイラストを制作したりもしました。もう30年以上前の懐かしい話です。
それから25年ほど、まったく連絡を取り合わない時間が過ぎました。仲違いしたわけではなく、お互いに必要さを感じない時期だったのだと思います。自分のことをもっともっと研ぎ澄ますことに専心する時間でも、あったのだと思います。
Facebookで、四半世紀ぶりに「上出優之利」という名前を発見しました。彼は写真を撮る人になっていました。
「モノクロのブルース」という写真集が、そこで紹介されていました。何げなくそれを覗いたことが、上出さんとの新しい付き合いを始めるきっかけになりました。
新宿・夜の歌舞伎町界隈で撮られた、いわゆるストリートフォトというジャンルの写真たち。すべての写真に写しだされたあからさまな人々の生。笑い怒り愛し泣き走り倒れ……美しく汚く。血潮流れる温もりのある限り続く生の歓びと哀しさと、無機質な都会との鮮烈な輪郭。
衝動 “上出さんに「クルマの達人」の写真を撮ってほしい!”
「2020年1月23日18時・上出さん達人写真打ち合わせ」とカレンダーに記録がありました。新宿南口の騒がしい安居酒屋で、写真を撮っていただきたいとお願いして、快諾をいただき、後日そのときまでの7年間写真を撮っていただいていたカメラマンに “好きな人ができた……” というようなお仕事終了のお願いを了承していただき、2020年4月27日に上出さんが撮影した写真と共に作った「クルマの達人」を世の中に届けることができました。連載「クルマの達人」の3人目の撮影者がこのとき誕生しました。
写真は、その掲載のために3月27日に上出さんが撮った「山口宗久」の姿です。トークショーの日以外にも、会場にお邪魔しているかもしれません。この顔を見たら、ぜひ話しかけてください。

それからあっという間に、5年が経ちました。60回分の連載を一つのカタチにまとめてみたいという上出さんの想いが、今回の写真展を実現させました。ひとつの継続的に連続する自身の所作に、ファインダーを覗き続けてきた本人は何を見たのか。二歳先輩ではありますが、30年来の友人であり、仕事のパートナーである上出優之利さんの感性に、ぜひこの貴重な機会を通じて直接触れていただきたいと思います。
文中の「モノクロのブルース」は、以下のサイトでスライド-ショーがご覧になれます。ぜひ、ご自身が持てるいちばん大きな画面で、写真の全体が見渡せる少し離れた距離から感じてみてください。
【モノクロのブルース】
【上出優之利写真展「クルマの達人」】は、大阪でも開催されます。
9月2日(火)~13日(土) キヤノンギャラリー大阪
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Bow。さん、逝く。
2024/11/24 18:28 Filed in: 日記っぽい話
Bow。さんが旅立たれた。
親しいと言えるような個人的な付き合いがあったわけではありませんが、「クルマの達人」に登場していただくために取材したときの心地よさをよく覚えています。数年前に、癌を患ったそうだと人づてに知って、少し落ち着いた頃だとも聞いたので携帯電話を鳴らしてみたけど応答はありませんでした。喉の腫瘍だったと後で知りました。
Bow。さんのことを書いた「クルマの達人」を掲載します。2007年のちょうど今ごろの季節に書店に並んだものです。写真は橋本玲さん。誌面に掲載したものとは違う、未公開のカットです。誌面ではもう少し厳しい表情をしたものを使いました。あの頃は誌面に緊張感を持たせるためにそれがいいと思ってのことでしたが、こちら表情の方が、わたしの知っているBow。さんらしいと思います。アトリエのガレージにあった、「TR-3」の写真も添えておきます。この写真が撮られた17年前の時点ですでに40年の連れ合い。誰もが知っている、あのTR-3です。
Bow。さん、やすらかに。

*********************
魂って、本当に存在するんでしょうか。もし存在するとしたら、それはいったい身体のどこにあるんでしょう。やっぱり頭の中、それとも胸の奥かしら。
Bow。さんの仕事場にあるガレージで、コーヒーをすすりながらの楽しい話も終わり、住宅街の細い道をてくてくと散歩のようにのんびり歩きながら、そんなことを考えていた。甲州街道に出る頃には、もう違うことが気になっていたんですけどね。だってこの大通り、今日もすごいクルマの流れ。意識は自然に、走るクルマへと向かいますから。
「実は20代の頃は、ファッション関係の仕事に精を出してたんだ。自動車の絵を描く仕事も十分あったけど、それよりももっと派手なシーンで生活していたような気がするな。だから当時は自動車の絵が仕事の中心っていう感覚は、なかったの。ファッション関係の仕事が面白くて、そっちに夢中だったんだね。
でもね、自動車の絵は頼まれなくてもずっと描いてた。3歳のころからだから、自動車の絵は。
おばあちゃんがね、甲州街道まで散歩によく連れてってくれたわけ。進駐軍の兵隊が乗るアメリカ製の最新型がカッコよくてね。あたりが暗くなって、“和弘、もういいでしょう?”って急かされても、あと少しあと少しって眺めては、家に帰って新聞の折り込み広告の裏に描いてたんだよ。好きだったんだね、自動車が」
Bow。さんの描くクルマの絵は、エッチだと思う。誰が乗ってきて、誰を待ってるのだろう。5分後の絵の景色には、もうそのクルマはいないかもしれない。誰とどこへ向かってしまったのかしら。切り取られた情景の中に時間の流れが見えてきて、妄想が膨らんでしまう。言葉知らずで失礼極まりないが、とてもエッチだと思うのだ。
「そう、僕の頭の中は、とてもエロティックだと思う。注文主からお題を与えられて、それは大抵“こういう色のこういうクルマで”というものなんだけど、少なくとも2日間くらいは、イメージを膨らませてるだけだよね。若い頃に絵を習ったことがあるんだけど、その頃からそうだった。ただ自動車をデッサンするような絵じゃなくて、観てくれる人たちが物語を感じてくれるような絵にしたいんだ。
こういうことなんですよなんていう答えがあるわけじゃなくて、十人十色、それぞれの記憶の中で共鳴する空気を感じてくれればいいと思う。僕の知らないところで、僕には想像もつかない物語が添えられてるのかななんて考えたら、本当にうれしい」
魂って、身体の中にあるんじゃなくて、思いを込めた何かがその人の手を離れた瞬間に、そこに宿るものなのかもしれない。言葉が口を離れて言霊になるように、絵は思いを描きあげた瞬間に魂を宿すのだとしたら、これは最高にエロティックだと思う。どこで誰の感性を濡らすかも分からない。わたしは、Bow。さんの絵、とてもエッチだと思う。
自動車が描きたい
その気持ちは譲れなかった
今も子どもの頃と変わらず、ドキッとした瞬間のクルマのいる風景を頭の中で紡ぎながら、作品を描いているのだというBow。さん。30代に大きな気持ちの転機を迎えたと教えてくれた。
「自分が何をやりたいのかっていうことに、相当悩んだ時期があってね。もちろん生活もあるから、好き勝手やっていいわけじゃないし、でも何か本当に集中したいことに正直に向かい合えていないような自分が嫌になっていたんだと思う。悩んだよ。
でもね、突然ひらめいたの。僕、自動車の絵が描きたいんだって。それがお金になるかならないかは、みなさんが決めてくださることで、仕事にならないから描かないというのは違うだろうって。自動車の絵を描くということを生き方の中心に据えて、ごはんを食べるためにやることなんて、別にどんな仕事でもいい。それでいいやって思えてからは、本当に気持ちが楽になったんだよ。なんだか毎日幸せだなぁって、感じられるんだ」
それでも幸いに、大した浮き沈みもなく今日まで来られたのは、運もよかったのかもねと笑うBow。さん。今や、クルマ好きが集まる場所ならどこででも見かけるあの絵に、そういう逸話があったことに驚いていると、こんなことを話してくれた。
「誰にでもあると思う、僕にとっての自動車の絵のような大切な存在って。それが見つからないって嘆く人が多いみたいだけど、見つけるものなんだと思う。見つける気持ちをあきらめないで、ずっとずっと自分を信じて探し続けなきゃ。
コレだってひらめくのが、20歳だって40歳だって70歳だっていいじゃない。見つけたその目標を頭の上に掲げて、今日は昨日よりも1ミリ近づいたな、あっ今日は昨日より1メートル下がっちゃったから明日は2メートル進もうって。そういうのが楽しいんだよ。それを絶対に仕事にしようなんて構えて疲れちゃうんじゃなくて、毎日地味に働いてるけど、自分にはアレがあるぜ、って思えることが最高に愉快なんだって」
ちょっと格好いいこと言い過ぎてるみたいで恥ずかしいね、と笑いながら、一目惚れして40年連れ添ってきたトライアンフTR3の話をはじめたBow。さん。マロニエの落ち葉道に静かに止まるクルマの絵に感じたあの空気、こういう男のみつごの魂が込められた作品なのだと知った。
「どうしても描き続けたい
自動車の絵を描く動機はそれだけだよ。。。」

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“The Story Behind the ND Roadster with Mr. Nobuhiro Yamamoto”
2024/10/29 12:13 Filed in: “書き”のお仕事
I wrote about Nobuhiro Yamamoto, the chief developer of the ND Roadster *MX-5/Miata, in a Japanese magazine, and we created an English version for Miata people in English-speaking countries.
According to Yamamoto, he was able to complete the ND Roadster exactly as he originally envisioned, thanks to the excellent teamwork of everyone involved in its development—without compromises from management or technical limitations.
Surprisingly, for such a large company, the unique value of the Mazda Roadster also lies in the fact that management members’ names are recognized as part of the project.
Of course, it was Mr. Yamamoto, as development director, who drew out the full power of this teamwork.
******************************
On September 28, 2014, an unveiling event took place for the new Mazda Roadster *Miata/MX-5, just days before its release. Before a sea of eager fans gathered at the venue, the team members who had brought the Roadster to life stood in a proud row. Among those introduced one by one was an employee responsible for cost management—an unusual sight, as it was the first time I’d seen someone in that role celebrated on stage alongside a brand-new car.
For engineers and designers who chase technical ideals, the finance department, which tightens the purse strings, often feels like a formidable barrier they must overcome to realize their visions. This was certainly true during the development of the new Roadster. It was Nobuhiro Yamamoto, the chief engineer steering the team, who made the bold decision to recognize that finance employee as an interral member of the car-making crew, inviting the gathered fans to celebrate alongside the freshly completed vehicle.

Yamamoto's roots lay in a farming family in Kochi, Shikoku. Horses and cows roamed around him, and his childhood was spent surrounded by fields, helping with seasonal farm work, all while growing close to various machines. Among these, vehicles captured his imagination.
"I remember when I was in kindergarten, there was a guy in the neighborhood who rode a motorcycle. Every time I saw him, I begged to ride it, again and again. One day, he finally said, 'Sure,' and let me straddle the tank. It was a two-stroke Tohatsu. As I felt the vibration of that iron horse beneath me, cutting through the wind, I thought, 'Wow, this is incredible!' That moment filled me with excitement. I can still recall it clearly—that was my first encounter with a car—or rather, a motorcycle."
In those days, it was customary for everyone in farming families to pitch in during the busy seasons, and long before he was old enough to hold a license, Yamamoto was already driving small motorcycles and mini trucks. Like many boys fascinated by machines, he often took apart the farm equipment used for their work, sometimes getting scolded by his father when he couldn’t reassemble them. Then, in his second year of junior high, he stumbled upon the news about the "rotary engine from Toyo Kogyo."
"I immediately applied for a free booklet titled 'Knowledge of the Rotary Engine,' and they sent it to me. As a kid, I didn’t fully grasp what made it so special, but I felt this surge of excitement, as if something extraordinary was about to begin! Back then, when the dentist near my school parked his Mark II 1900SL and my teachers drove Publicas and Corollas, the arrival of the Familia Rotary Coupe made a huge impression on me. Even as a child, I was mesmerized by this car—it was the first in the world to feature a rotary engine, and it was unlike anything else out there."
After graduating from a technical high school, Yamamoto's dream came true when he joined Toyo Kogyo, earning a coveted position in the "Rotary Engine Research Department."
The years Yamamoto spent deeply immersed in the development of the rotary engine provided him with a treasure trove of experience.
“The fulfillment of working on an engine that only we were developing came hand in hand with the immense challenge of having to resolve every issue on our own. It was as if I was living and breathing rotary engines. Whether I was at the company or at home, my mind was constantly occupied with thoughts of the rotary engine. That was the rhythm of my life.
The rotary engine also taught me that in the realm of technology, a correct answer always lies at the end of a logical path, and there are no shortcuts to reach it. I wrote down the words, 'All our actions must be honest and sincere,' and placed them prominently on my desk. Those words truly encapsulated the way the members of the Rotary Engine Research Department conducted their lives.”
The rookie engineer, who had once devoted himself entirely to rotary engines day and night, eventually evolved into a seasoned engineer, overseeing the development of vehicles as a deputy chief engineer, including the second and third generations of the Roadster as well as several SUVs.
More than thirty years after he had submitted his fervent petition declaring, "I want to work on rotary engines no matter what," one day he received a directive to lead a project focused on developing a new FR layout platform, aimed at realizing the next generation of open cars and coupes.
“Without any notice or hint, they simply stated, 'This is the situation, so please take care of it.' They didn’t specify a name like the next Roadster, but it was clear that the project was intended for the advanced development of vehicles such as the Roadster and RX-7. There were no emotional discussions like, 'Do you want to give this a try?' or 'Think it over.' It was delivered as part of a routine personnel shift. I responded, 'Understood, I’ll take it on.' Three days later, I found myself in a new office, sitting at a different desk.
This marked the beginning of a completely different chapter in my career, one that shifted my focus from the specialized engineering field I had known to the broader realm of platform technology development. It all began abruptly at the end of June 2007.”

Due to the impact of the Lehman Shock, the project team led by Yamamoto was temporarily disbanded in its second year. However, they later resumed their efforts with a renewed focus and a clear development goal: the release of the Roadster.
"Looking back now, those were incredibly intense days. Yet, as the chief engineer, I felt that handling this level of responsibility was just part of the job, and I accepted everything with a sense of calm. At least, I never felt like I was under unbearable pressure."
During the development of the Roadster, I had the opportunity to attend a meeting where Yamamoto, alongside engineers from various fields, shared their progress and current challenges. His sharp, relentless critiques flowed one after another, his expression serious throughout the discussions. The engineers’ responses were equally fierce, reflecting the harsh realities they faced in their work.
On the other hand, Mr. Yamamoto, the chief engineer of the development team, had to submit every proposal for approval from the executives of each department while also considering the realities on the ground. Imagining the immense pressure he must have been under, I found myself compelled to ask Yamamoto about it.
“As chief engineer, my role isn’t just about making things; it’s about setting goals. When I first took on this position, I didn’t fully grasp what it entailed. So, I went around asking many senior colleagues for their advice. Some of them had previously disagreed with almost everything I tried to do in my past work. Yet, no matter how much you ponder something unfamiliar, understanding it is often out of reach. In those moments, the only option is to seek guidance from someone who seems to know and let them teach you. Everyone took the time to help me, generously sharing their wisdom.
You shouldn’t merely focus on solving the immediate problems to complete the car. Instead, establish a clear vision of the type of car you want to create, and then think about what needs to be done to make that a reality. Once the vision of your ideal car is set, raise it high so that everyone involved can share in it, continually guiding the engineers along the path toward that goal. ...I learned many other valuable lessons about what I needed to do as well.
I decided to make the new Roadster the most fun-to-drive car in the world and raised that as our goal. I concluded that the key engineering element to achieve this was lightness, and I devoted myself to inspiring everyone to bring that vision to life, guiding the necessary steps along the way. Over time, I also realized that when team members are passionately working toward a shared goal, it’s often better to trust them rather than interfere unnecessarily. Simply saying, 'I’m counting on you,' can yield surprisingly positive results."
Would sharing this kind of on-the-ground perspective help secure approval from the executives?
“No, there’s no such thing as lowering approval requirements based on the situation. The performance and budget targets set at the time of initial approval are essentially non-negotiable. If we don’t meet those, we can’t present it to the executives.

The one-ton weight limit was incredibly challenging. Should we just go all out and use 13-inch wheels, eliminate the power steering, or even scrap the air conditioning? Perhaps we could replace certain parts with aluminum. But no, that would jeopardize our cost targets.
The executives were not going to overlook such issues. 'You said you’d keep it under one ton. Are you really going to set an unachievable goal and leave your team stranded? Why is this costing so much? Drop the LED headlights, forget about aluminum, reduce the number of prototypes—there’s too much labor involved. If you invest this much in a 1.5-liter engine, how can you expect it to be affordable? Get both the weight and cost within target!'
I had to face all of those comments head-on."
So, wasn't it like being under unbearable pressure?
"No," he replied thoughtfully. "But afterward, they’d always come back with suggestions like, 'Couldn’t we reduce the weight by doing this?' or 'Once production starts and we hit our sales targets, the price of the LED lamps will drop significantly, so let’s use that to meet the target.' Both the engineers on the ground and the executives have their own roles to play, with things they must say and things they can’t. But the most crucial aspect is that everyone—both in the field and in management—is aligned toward the same goal. The Roadster had to embody a specific vision; there was no way we could release a car that simply came together by chance. Each person contributed their thoughts on what needed to be done to achieve our objectives, and that’s how we completed the fourth-generation ND Roadster."

After pausing for a moment, he took a breath and continued, "When I first joined the company, I was asked to write down my goals for the next ten years. I wrote in my notebook, 'I will become an engineer who makes the best engine in the world.' But I ended up on a different path from what I had envisioned, and yet, I still had the best time of my life. You never know what tomorrow will bring, and the reality is that, in the end, only the results matter. If all you can do is look back later, you might as well give it your all and enjoy the journey, reflecting on it when it’s over—that’s how I see it.
And let’s not forget that you are where you are because of the people around you. Without gratitude for that, nothing will go well. That’s what I feel as I look at the Roadster, completed just as we all imagined."
"...Not a Car That Simply Came Together, but the Roadster Crafted Precisely as Envisioned: A True Testament to Teamwork."
text:Munehisa Yamaguchi
photo:Masanori Kamide
special thanks:MAZDA
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85歳、現役「クルマの達人」
2024/10/27 04:40 Filed in: “書き”のお仕事
もう初夏の頃のことですが電話を掛けたら、20年も前に原稿を書かせていただいたわたしのことを憶えてくださっていたことが、驚くやらうれしいやら。なにしろ、御年85歳です。すぐに大阪まで顔を見せに行ってきました。なにしろ85歳ですから、20年前にインタビューを取ったときにすでに65歳ですから、工場に出ているよと言われても、看板役としてのお務めかしらと想像していたら、ポルシェのエンジンルームに半身を突っ込んで工具を動かしているじゃないですか。さらに2週間後くらい、カメラマンといっしょに改めて訪ねて取材したときの記事がようやく書店に並びました。
先週の金曜日に携帯電話が鳴りまして。誰かと思ったら鮎川さんで、さっき本が届いた、とてもうまく書いてくれてありがとう、尻がこそばい、と喜んでくれてまして、10冊くらい買いたいというので編集部に手配しますと返しつつ、夏の取材のとき以来、少し話しました。

鮎川日出夫さん、戦前の生まれです。自動車の整備士が”修理屋”と呼ばれて阿呆でもできる糞みたいな仕事と聞かされていた幼少期の後、求められる人材となった高度成長期とモータリゼーションの時代を経て、やり方次第で会社員の何倍もの大きなお金を稼げるようになり、今に至るまでの全期間を現役メカニックとして過ごしてこられました。
今号の「クルマの達人」は、鮎川さんに物心がついた頃から……すなわち80年分くらいの日本の自動車周りの気配をなぞりつつ、ポルシェのメカニックとして多くの人が頼ることになった背景を4ページを使って描きました。同じくらいの時間軸でまた別のメカニックの物語を綴ることは、なかなか難しいことだと思います。カーセンサーエッジ誌12月号に載ってます、ぜひ部屋に持って帰ってゆっくり読んでください。
写真は、上出優之利さんです。

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山本修弘さんのことを書きました。
2024/09/10 11:42 Filed in: “書き”のお仕事
みにくい「自前サーバーブログ」が続いていますが、もうしばらくご辛抱ください。facebookに寄せられた視聴環境ごとの見え方について、対策を検証しています。
さて、
9月27日発売のカーセンサーエッジ誌、連載「クルマの達人」で、NDロードスター開発主査を務められた山本修弘さんのことを書かせていただきました。
具体的なクルマの話……例えばサスペンションとかエンジンとかデザインとか、そういう話は、ほとんど書きませんでした。ただただ山本さんの目の前に現れた情景とそれについてのご本人の反応を書きました。その中から、我ら凡人の身の丈からでも見渡せる決してスーパーマンではない親しみと、おおよそほとんどの人には真似できない人並み外れた特性を読み抜いていただければうれしく思います。NDロードスターが、いまよりもっと愛おしくなるなるかもしれません。

写真:上出優之利
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